【映画】「猫と塩、または砂糖」感想・レビュー・解説

なかなか変な作品だった。面白かったのかと言われるとなかなか答えにくいところはあるが、嫌いじゃない。

なかなか興味深いポイントは、「どれだけ奇妙な鍵でも、それが入る鍵穴があれば問題ない」という点だと思う。「割れ鍋に綴じ蓋」だとちょっとニュアンスがズレるのだが、大体そんな感じだ。

僕は、「社会という鍵穴」にはなかなか上手く合わない鍵なのだけど、僕のような鍵が合う鍵穴もどこかにはある。そしてこの作品は、そういう雰囲気を、実に奇妙な形で描き出していく。

どうしても、「社会という鍵穴」に合わない人間は「ダメ」だとされてしまう。そんな現実に苦しさを感じてしまう人も多いだろう。ただ、「なぜ『社会という鍵穴』にハマることが良しとされているのか?」と立ち止まってみる必要はある。

印象的だった会話がある。主人公の1人が、30歳を超えてもニートで、働かずに家にいる男なのだが、彼に向かってある人物が、「今のうちに自立しておかないと将来困るぞ」みたいなことを言う。それに対して男は、「確定した出来事に対しては対策が取れます。僕の未来が確定しているなら教えてください」と返すのだ。なかなか面白いやり取りだ。

ニートの男もやはり、「社会という鍵穴」にはまったくハマらない人間なのだが、彼は彼で、ピッタリハマる鍵穴の存在を見つけている。その状態は、世間一般的には「正しくないこと」だと受け取られるが、しかし、「なぜダメなのか」の説明は案外難しいと思う。もちろん、いろんな意見を口にすることはできるが、結局それらは「マジョリティがそう考えている」というだけの話であって、彼の状態を決定的に悪とする理由にはなかなかならないだろう。

で、だったらそれでいいのではないか、と僕なんかは思う。

確か林修だったと思うが、以前何かの番組で、「どんな理由であれ、生活が成り立っているのであれば働く必要はないと私は思う」みたいなことを言っていたと思う。僕もそう思う。犯罪に手を染めていないのであれば、宝くじに当たったでも、親の遺産でもなんでも、生活が成立しているなら働く必要はない。「生活費を稼ぐ」以外の働く意義を見出せるなら働けばいいし、そうでないなら働く必要はないだろう。

それよりも重要なことは、「自分に合った鍵穴を見つけられているかどうか」だと思う。よほど特殊な事情や性格で無い限り、「一人で生きていくこと」はなかなか難しい。だからこそ、人でも場でもなんでもいいが、「自分の鍵の形に合う鍵穴の存在」が非常に重要になってくる。

彼には、それがあった。そして物語の中で、様々な理由から一度、その鍵穴から抜かれてしまった。

そうなった時、人はどうなるのか。まったくリアリティを感じさせない物語ではあるが、奇妙な展開の先に、「結局そういうことだよね」という結論にたどり着く物語は、案外色んなことを考えさせるのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
佐藤一郎は、元々会社員をしていたが、「これは自分の幸せの方向ではない」と判断し仕事をやめ、今は「母親の猫」を仕事にしている。母親・恵子の買い物に付き合う以外は、猫のように自由に振る舞う存在である。家には、酒浸りの父親・茂がいて、仕事もせずひたすら酒を飲んでいる。この一家がどのように生活を成り立たせているのか謎だ。
そんなある日、バスツアーに出かけた一郎と恵子は、浜辺でずぶ濡れになっている男女を見つける。よく見ると男の方は、恵子が小学校時代の6年間付き合っていた金城譲二であり、隣にいる真っ白な服に身を包んだ少女は彼の娘・絵美だという。金城は恵子に接近、酒浸りの夫と離婚させることにし、絵美と2人、佐藤家で暮らすことになった。ただし、別れた夫も追い出すことはせず、一つ屋根の下で暮らし続ける。
「父親専用のアイドル」として生きる絵美の奇妙な行動に面食らいながら、それまでの生活を続けようとする一郎だったが、母親は徐々に金城に心酔していく。一方、初めこそ意思の疎通がほぼ不可能だった絵美と、VRゲーム上の会話をきっかけにして仲良くなっていくが……。
というような話です。

登場人物全員がシンプルに異常者で、しかもその異常さは少しずつ違う。完全に「異常の渋滞」という感じの家族なのだが、彼らはお互いの異常性に強く反応するでもなく、表面上は穏やかに生活している。別れた夫もそのまま家にいるというかなり不可解な関係性なのだが、他があまりにも奇妙すぎて、その点にそこまで目がいかないほどだ。

ニートの一郎もさることながら、その母である恵子がなかなかの狂いっぷりで、その役を、「超常識人」にしか思えない宮崎美子が演じているというギャップも脳がバグる要因の1つだと思う。

また、絵美もなかなか面白い。最近いがちの「不思議系アイドル」みたいな感じの雰囲気をバリバリに出しつつ、要所要所で物語を動かす要になっていく。

全体的にはなかなか意味不明な作品で、とにかく意味不明な家族の有り様が描かれるのだが、しかし同時に、「すべての家族が結局のところ”異様”なのではないか」とも感じさせられる。この作品では、現実を「ほんの僅か」誇張しているにすぎず、結局どの家族も、この映画で描かれる「佐藤家」に通じる異様さを抱えているのだと思う。家族なんて、そんなものだ。

当たり前ではないことを、さも当たり前のことであるかのように行動する異常な人々が、「当たり前ってなんだっけ?」と問いかけてくるような、なかなか異常な作品だ。

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