【映画】「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」感想・レビュー・解説

これは凄まじい物語だった。「実話を基にした物語」はよく見るのだが、その中でもかなり圧巻と言っていいかもしれない。以前、『デトロイト』という、本作と同じように白人景観が無実の黒人を殺害した実話を基にした映画を観たが、それと同じぐらいの理不尽さだ。ホントに、アメリカは、ちょっとあまりに酷すぎる。

まずは、その内容を紹介しよう。

事件は、2011年11月19日朝5時22分に始まった。自宅で寝ていた、70歳の心臓病持ちの黒人男性ケネス・チェンバレン宅に、ライフガード社から電話が掛かってきた。ライフガード社については特段説明されないのであくまでも予想だが、病気などに心配事を抱える人が、自身の緊急事態をすぐに知らせるためのサービスを提供しているのだと思う。

ケネスは寝ている間に、無意識の内に首に掛けていたネックレスを外してしまった。恐らく、この「ネックレスを外す」という行為が、医療用通報装置を作動させる合図なのだと思う。ライフガード社は通常の手続きに従ってケネス宅に電話した。しかし、寝ているケネスは電話に出ない。そこでライフガード社は次の手順として、ケネスが住む地元の警察に安否確認を依頼した。

安否確認の依頼は、消防や救急など様々なところに回されるらしいが、この時はホワイトプレーンズ署に連絡が行った。ライフガード社からの通報から数分後、ホワイトプレーンズ署の警察官3人が、ケネス宅の前に到着する。

警察は、通報者(今回は誤作動だったが)の安否を確認する責務を負っている。だからケネスに対してドア越しに、「ドアを開けてくれれば5分で終わる」と、何度も説得を試みる。しかしケネスは頑なにドアを開けない。「また靴を盗もうとしているのか?」と警察官たちに言ったりもするほどだ。

実はケネスは精神病院に入院歴があり、「妄想化傾向を持つ双極性障害」と診断されていた。本当かどうかは不明だが、「少し前に自宅に何者かが入り靴を盗んでいった」と考えており、さらにドアをガンガン叩いてケネスにドアを開けさせようとする警察官に対して、「自分を殺そうとしているんだ」と考えたりもする。

映画の冒頭で、『警察官を見て安心感を抱く者もいれば、恐怖を感じる者もいる』という、「クリストファー・L・ペレス」みたいな名前の人(たぶん正確ではないが、検索してもちょっと出てこなかった)の言葉が表示される。日本でも時々、警察官による不祥事が起こるし、とんでもない巨悪に関わることもあるが、しかし概ね日本では、警察官は「信頼されている」と言っていいだろう。

しかしアメリカではそうではない。日本でもBLMの問題が取り上げられていた時期に、アメリカの白人警官がカメラで撮影されていることを知りながら、黒人男性の首を締め続け窒息死させた事件が報じられた。先程紹介した『デトロイト』で描かれる事件も酷いものだったし、とにかく警察官が「悪い」。映画の中でも、どこまで実話に即しているかは不明だが、3人の内の1人が明らかに「ヤバい奴」だった。映画のラストで、「駆けつけた警察官の内何人かは、元々住民から苦情の申立があった者だった」という字幕も表示された。アメリカは州によっても大きく異なり、黒人差別が未だに苛烈な州もある。

だからケネスが警察官を信用せずに扉を開けなかったのも仕方ないと僕は感じる。

しかし、警察官はそう考えなかった。3人の内1人は、中学の教師から最近警察官に転職した新人のようで、その新人に対して警部補が、「土地柄をよく理解しろ」「この匂いで分かるだろ」「どの部屋も犯罪の温床だぞ」と、「犯罪が常態化している地域であること」を示唆する。だから、「ケネスがドアを開けないのは、何か隠しているからだ」と判断するのだ。

また彼らは、「もしケネスの顔を見ずに帰って、その後ここで何か起こったら、それは俺たちの責任になるんだぞ」と、「もう帰りましょう」と促す新人に怒号する。警察官は途中から明らかに、「安否確認」という本来の目的を逸し、「犯罪者かもしれない怪しい人物を点検する」という目的にすり替わった。

だから、ライフガード社が「安否確認依頼を取り消した」と主張しても、近くに住む姪が「私が伯父と話します」と言っても、まったく聞く耳を持たない。「あとは警察に任せて下さい」と言い、そしてなんと、とんでもない強硬手段に出るのである……。

という話である。

まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」の逆を行く物語だと感じた。発端は、「連絡がつかない顧客の安否確認をしてくれ」という、なんてことはない依頼だった。しかしそれが、様々なすれ違いから、最終的に「ケネス・チェンバレンの死」という結末を迎えてしまうことになる。

その信じがたい展開を、ほぼリアルタイムで描き出す物語だ。

ライフガード社からの連絡が5時22分で、警察官の到着が5時半。そしてケネスは、7時までには殺害されたそうだ。その間、90分。そして、映画『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』の上映時間は83分。回想シーンなどもなく、「ケネスの室内」と「ケネスの部屋のドアの前」という2つの舞台だけを使って、実際の時間経過とほぼ同じ形で映画が作られているのだ。それを知ると、さらにその臨場感の凄まじさが実感できるだろう。

本当にとにかくもう、「圧倒された」としか言いようのない物語だった。それは、「実話に基づく物語である」という事実だけに依るものではない。とにかく、役者たちの演技が凄かった。リアルタイムで時間経過を追っているからということもあったかもしれないが、とにかく「自分もその場にいて、この状況を体感しているのではないか」と錯覚させるほどの凄まじい臨場感に圧倒されっ放しだった。

この物語の「臨場感」には、もう1つ理由がある。ケネスは、ライフガード社から提供されている「通信端末」(機能としては、「持ち運べる、画面のない電話」みたいなもの)を持っており、それを使ってライフガード社の担当者とやり取りをしている。そして、そういうサービスを提供する会社であれば当然のこと、利用客とのやり取りはすべて録音されているのだ。映画のラストで、実際の音声が一部流れたが、恐らく5時半から7時までの90分間のかなりの時間、ライフガード社の通信は繋がっていたはずだし、それが録音されていたはずだ。

それが理解できるからこそ、「双極性障害」と診断されているケネスの「意味不明な言動」も、「実際にそういうやり取りがあったのだ」と思うことが出来る。

例えばある場面でケネスは「通信端末」に向かって、「オバマ大統領、助けて下さい」みたいなことを言う。そこまでの物語の中で、「オバマ大統領」が絡んだことは一度もない。まったく唐突に出てきた言葉であり、フィクションならまず成立しないセリフだ。しかしこの映画の場合、「実際にケネスがそう叫んだ記録が残っている」という事実があるため、このような「理解不能なセリフ」が存在するわけだし、それが一層、事実の「異様さ」を際立たせているように感じられる。

ケネスは警察官とやり合っている間、頻繁に掛かってくる親族からの電話にも対応しているのだが、「すぐ向かうよ」と口にする親族に向かって「絶対に来るな」と言っているのが印象的だった。ケネスはとにかく、最悪の状況下にいる。絶体絶命である。しかし、自分がいる場所の「危険性」を正確に理解していた彼は、「ここは危険だから来るな」と、電話を掛けてくるすべての親族に言うのである。なんというのか、この振る舞いは、優しさの発露であるということが伝わるからこそ、非常に切ないものに映った。

この事件に関して、起訴された者も有罪となった者もいないと、映画の最後に字幕で表示された。本当に、クソみたいな現実だ。アメリカ国内でこの事件がどのように、どの程度報じられたのか知らないが、このような現実を許容しているのだろうか?

と、アメリカを非難するようなことを書いたが、この視点は僕らにもブーメランのように返ってくる。例えば今で言えば、ジャニー喜多川の性加害問題について、恐らく諸外国から、「このような現実を許容しているのか?」という見られ方がされているだろう。「天に唾する」ような行為は慎むべきというわけだ(全然関係ないが、「天に唾する」という言葉の使い方がちょっと不安で調べてみたら、今は元の意味とはまったく異なる意味で受け取られているそうだ)。

しかし凄まじい映画だった。恐らくこの物語、最初から最後までその内容を事細かに文字に起こしたものを読んでから観に行っても、その凄まじさに圧倒されると思う。とにかく、信じがたい現実が映し出されている、とんでもない映画である。

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