【映画】「炎上する君」感想・レビュー・解説

さて、まずは、ちょっとだけ「炎上」しそうな話から始めよう。

「なぜ、梨田と浜中は『変な人』として描かれなければならないのか」

についてである。

僕は今40歳なので、昭和のテレビ番組についてもざっくり記憶がある(人よりも記憶力がすこぶる悪いので、あまりちゃんとは覚えていないが)。で、昔のバラエティ番組などでは、ホモ(昔はゲイではなく、ホモと呼ばれていることの方が多かった印象がある)を「気持ち悪い存在」として描くようなネタが散見された。この手の話ではよく話題に上るだろうが、「保毛尾田保毛男」などもまさにそのようなキャラクターとして造形されたと思う。

実際には、昔のバラエティ番組で描かれていたような「ステレオタイプなホモ」など、世の中にほとんどいなかったんじゃないかと思う。もちろん、まったくいなかったとは思わないが、決してそれが「ホモ(ゲイ)」を代表するような存在ではなかったはずだ。

さてでは、どうして「ホモ(ゲイ)」は「保毛尾田保毛男」のような扱われ方になったのか。恐らくそれは、「見えない」からだと思う。

今以上に、セクシャリティとかジェンダーなどに対する理解が薄かった時代であれば、今以上にカミングアウトする人が少なかったことは容易に想像できる。僕はこれまで人生において、「アセクシュアル(Q)」「デミセクシャル(Q)」「トランスジェンダー(T)」と打ち明けてくれた人と出会ったことがあるが、レズ・ゲイ・バイセクシャル(L・G・B)という人には会ったことがないような気がする(もちろん、ゲイバーなど、お客さんとして行く場合を除く)。映画の中に出てくる、「私、女子高出身だから、ホントそういうの偏見ないよ」みたいに言う女のようにはなりたくないからあまり書きたくはないが、僕は割とその辺りのことをフラットに受け取るし、「フラットに受け取る人間である」ということがそれなりには伝わる振る舞いが出来ていると思うのだが、それでもLGBTQのほとんどに出会ったことがない。

一昔前とはそれなりには時代が変わったはずなのに、未だにLGBTQは「見えない」存在なのだ。

そして、「見えない」からこそ、「過剰に装飾」しなければ存在そのものに気づいてもらえない。だから、当事者も自身を「過剰に装飾」していたかもしれないし、あるいはテレビなど「こういう存在がいる」と発信する側もまた、「過剰に装飾」しなければならなかったのだろう。僕はそんな風に理解している。

さて、先程の問いに戻ろう。「なぜ、梨田と浜中は『変な人』として描かれなければならないのか」である。ここまでの話を踏まえれば、答えは「過剰に装飾しないと見えないから」ということになる。

さて、先程「保毛尾田保毛男」の話を引き合いに出したこともあり、この映画の中で「梨田と浜中を『変な人』として描くこと」をディスっているように感じる人もいるかもしれないが、決してそんなつもりはない。「保毛尾田保毛男」は、「笑い(というか「嘲笑」)」のために「過剰な装飾」を施したのだと思うが、『炎上する君』ではそうではない。ないはずだ。この映画では純粋に、「『見えない存在』を視覚化するため」に、「変な人」という描き方をしているというわけだ。

だから、僕は思う。梨田や浜中のようなマインドの持ち主が、「変な人」として描かれなくなることこそ、本当の「ダイバーシティ」なのだろうな、と。

さて、ここまでで僕は梨田と浜中を「見えない存在」と書いたが、もちろん見えている人もいる。「見えている」というか、「見えてしまう」というか。

少し前に買ったまま積ん読状態だった、友人の友人であるムラタエリコという人が書いた『ユーハブマイワード』というエッセイがある。このエッセイの内容は、『炎上する君』と通ずるものがある。というか、この『ユーハブマイワード』の中身について友人女性と話をしている時に、「そういえば『炎上する君』って映画は、『ユーハブマイワード』に近いかもしれない」と言われて、初めてこの映画の存在を知った次第だ。

色んな話が書かれていて、めちゃくちゃズバズバ刺さったのだが、まさに『炎上する君』でも扱われる「毛」の話が出てくる。

【膨らんだ二つの胸、ぼーぼーの脇毛やすね毛や腕毛。足の親指に生える毛、ギャランドゥも乳首の周りに生える申し訳程度の毛も、口の横に生える毛も気にならないで生きていける時がある。いわば無敵の時だ。】

【「社会の作り出した美意識にいつまでやんわりと付き合うのか」とか「可哀想だ。こんなに一生懸命生えようとしているのに」みたいな気持ちが毛に対してある。】

ずばり、と言ったところだろう。

自分の振る舞いに対して、「させられている」という意識を持たずに一生を終えられるとしたら、シンプルにそれは「喜ばしいことだ」と感じる(皮肉でもなんでもなく、その方が楽だろう)。「みんながしていること」になんの違和感も覚えず、「みんながしていること」以外のことを「そこはかとなく」排除し、「『自身がマジョリティに属している』という自覚を持っていないことそのものがマイノリティを傷つけ得る」という自覚を一切持たずに生きていられるのなら、そんな素晴らしいことはないだろう。

そういうスタンスは、社会のあちこちに現れる。『炎上する君』の中では、お笑いライブや居酒屋で耳にした会話、街中でたまたまもらったティッシュなどから「そういうスタンス」を感じ取ることが出来る。

一方、「そういうスタンス」からあっさりと零れ落ちてしまう人たちもいる。僕もたぶんその一人だし、僕がこれまで積極的に関わろうとしてきた人たちも、そういう人ばかりだ。

そして、そういう人は社会から「見えない」。マジョリティは、僕らのことを見る必然性も、見たいという動機も持ち合わせていないからだ。そして時々、「ジェンダー」「SDGs」「ダイバーシティ」みたいな単語が前面に押し出されるような状況で、「私たちはあなた方のことを見ていますよ」というアピールをする、という動機が生まれるぐらいだ。

映画の中で、梨田と浜中が、ある政治家の不祥事に憤るシーンが描かれる。50代の政治家が、14歳の少女との間に「恋愛関係」があった、と主張しているというやり取りだ。そんなことはまずあり得ない。その政治家は恐らく、「そんなことはあり得ない」と分かっていながら、責任逃れのためにそう強弁しているに過ぎないだろうが、仮に、もし仮にその政治家が、本気で「14歳の少女との間に『恋愛関係』があった」と思っているのであれば、「そんなものはなかった」という現実を理解させることはなかなか難しい。

そして同じことが、「見えない存在」に対しても向けられているように思う。「私、女子高出身だから、ホントそういうの偏見ないよ」みたいな言葉が血の通った言葉として相手に届くのかどうか想像出来ない人間とか、「ジェンダー」「SDGs」「ダイバーシティ」のような時だけ視線を向けることで「見ている」気になっている人間とかは、「14歳の少女との間に『恋愛関係』があった」と主張している50代の政治家のようにしか見えない。

みたいな世の中を生きている自覚がある人には、この映画はぶっ刺さるだろう。そして、「はぁ? お前マジで何言ってんの?」と感じる人には、まったく意味不明な映画だろうと思う。

うーむ、こんなに攻撃的な文章を書くつもりじゃなかったんだけど、なかなかの喧嘩の売りっぷりだなと自分でも思う。まあ、映画上映後のトークイベントで、演者のセリフを受ける形で、「ですよね、めっちゃ中指立ってる映画ですよね」と言っていたので、まあ許してもらおう。

さて、メッセージ性とか、主役2人の存在感とか、足が燃えてる意味不明な展開とか、結構面白い映画なんだけど、1点だけ、「短すぎるだろ」と言いたい。42分の映画なんか、初めて観たかもしれん。まあ、資金やら時間やらなんやらきっと色々な制約があったんだろうけど、せめて90分ぐらいはあってほしかったなぁ。

エンドロールを観るまで、西加奈子が原作だって気づかなかったんだけど(『炎上する君』っていうタイトルには聞き覚えがあったから、西加奈子原作と知って、なるほどそれでか、と思った)、何にせよ僕は西加奈子の原作を読んでない。だから、原作と比較してどうのという話は出来ないのだが、映画のストーリーだけでも、全然広げられそうな話は色々ある。話の起点となるお笑い芸人とか、居酒屋を飛び出していったボーカルとか(『少女は卒業しない』に出てた人だよなぁ、と思ったら、やっぱりそうだった)、全然広げられるやん、と思う。まあやはり、何らかの制約があったんだろうなぁ。

ただ、配信で映画を観る時代だから、「映画館で観るには短い」と感じるが、逆に「配信でならサクッと観れる」みたいな感覚になるかもしれない。上映後のトークイベントでは、監督・脚本のふくだももこ(子どもがいるので、夜はなかなか仕事に出れず、トークイベントにも出席していない)が、観客(と演者)に向けて手紙を書くという、少なくとも僕は初めての体験をしたのだが、その中でふくだももこが、「この映画は、本気で日本中の人に観てほしいと思ってる」みたいなことを書いていた。そういう意味で言うならば、42分という長さは、もしかしたら戦略的なものなのかもしれないなぁ、と思ったりもする。

まあ、それにしても、とは思うけど(笑)

トークイベントの中で驚いたのは、「お笑いライブのネタは、役者自らが考えた」という話。今日のトークイベントにも出ていた人で、芸人パートに出演していた役者が元芸人(今も芸人なのかな?)らしく、その人のお陰でなんとかなった、みたいなことを監督が手紙に書いていた。芸人パートの演者たちは、オーディションの後、次に集まったのが、「本読み・ネタ作り」という、映画製作においてはまず聞かないだろう場だったそうだ。映画の中では編集されていたが、撮影では3組の芸人がそれぞれ、約3分ほどのネタをフル尺で演じたそうで、42分の上映時間の中でも決して長くない芸人パートも、撮影としてはかなりハードだったようである。

しかしまあ、変な映画だった。そして繰り返すが、この「変さ」が「普通」になるような社会になればいいと思う。

余談だが、別に狙ったわけではなく、この感想、約4200字ほどである。映画1分辺り100文字の感想を書いていることになる。


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