【映画】「窓辺にて」感想・レビュー・解説

僕的には凄く良い映画だった。

映画が始まってしばらくの間、市川茂巳(稲垣吾郎)が抱える葛藤は観客には理解できない。それが分かるのは、映画の中盤ぐらいになってからだ。そういう場合、僕は、「市川茂巳の葛藤」について具体的に触れないようにしている。ネタバレになるからだ。

ただ今回は、まさにその「市川茂巳の葛藤」についてあれこれ書きたいので、自分の中の「ネタバレ基準」を逸脱して文章を書こうと思う。

この映画を観て、市川茂巳に共感できる人は、きっとほとんどいないのだろう。劇中でも散々、「それはあり得ない」と言われ続けるからだ。少なくとも映画の中には、彼の葛藤を知った上で市川茂巳に共感を示す人物は出てこない。

ただ僕は、メチャクチャ市川茂巳側の人間だ。だからこの映画を、完全に「市川茂巳目線」で観た。もちろん、市川茂巳は主人公だから、誰もが『窓辺にて』という映画を観る際は、「市川茂巳目線」と言えるかもしれない。しかし、彼があまりに共感されない人物であるために、恐らく多くの人は、市川茂巳ではない人物の目線に立ってこの物語を観ることになるのではないかと思う。

そういう意味できっと、僕は大分特殊な人間だと思う。

市川茂巳の葛藤とは、「妻の浮気を知った時、そのことにショックを受けなかった」という点に尽きる。そして、僕自身は付き合っている相手の浮気を知ったなんて経験はないのだが、ただ、間違いなく市川茂巳と同じ側の人間である確信がある。僕は既に、20代の頃にはそんな風に考えていた。

僕は割とこんな風に考えてしまう。大事なのは「僕と一緒にいる時間」であり、僕と一緒にいるわけではない時間に何をしていても、それは本人の自由なんじゃないか、と。まあ、「僕と一緒にいる時間」に、例えば浮気相手と電話しているとか、浮気相手に会うための服を一緒に買いに行くとか、そういうのはちょっとどうかなと思うけど、そうでなければ、別に本人がしたいと思うことをする方が自然なのではないか、と思ってしまう。

みたいな感覚は、基本的に誰にも共感してもらえないことは分かっているのでほとんど人に話さないが、たまに話してみる機会があると、「それって、相手のことを好きじゃないんじゃないの?」みたいな反応になる。映画でも、市川茂巳はそんな反応に晒されていた。

まあ、そうなのかもしれない。ただ、自分の中では「そうじゃないんだよなぁ」という感覚がある。なんにせよ、「好き」に限らず、どんな感情も他人のそれと比較できるようなものではないからなんとも言えないのだけど、僕は僕なりの感覚で、相手のことを「好き」だと思ってるんだよなぁ、と考えている。

市川茂巳がある場面で、こんな風に口にする。

『「好き」って気持ちが、他の人と同じような形では自分の中にはないのかもしれない』

映画の中で、一番共感したセリフだ。同じように共感したのが、

『自分の感情の乏しさに怖くなることがある』

というセリフ。これもメチャクチャ分かる。

20代の頃、まさに「自分の感情の乏しさに怖くなった経験」がある。祖父母など、割と身近な存在が死んでも、悲しいという感情にならないのだ。未だに僕は、人が死んで悲しいという感情を抱いたことがない。「悲しい」という感情を理解できないわけじゃない。「悲しい」と感じることもある。ただ、人が死んで悲しいと感じることがないのだ。

そういう自分に気づいた時には、ちょっと恐怖を覚えた。ちょっとこれはマズいかもしれないな、と。まあでも、「自分はそういう人間なんだ」と思うしかない。たぶん、ごく一般的な人とは、「感情のスイッチの入り方」が違うのだ。とりあえず、そういう理解をしながら、とりあえず生きている。

メチャクチャ印象的だったのが、市川茂巳が自身の葛藤について、昔からの友人(なのだと思う)のサッカー選手(だと思ったけど、違うかも)に相談する場面。そもそも市川茂巳は、「この悩みは誰にも相談できない」と考えている。映画の冒頭、17歳で権威ある文学賞を受賞した久保留亜(玉城ティナ)と個人的に関わるようになるのだが、恐らく市川茂巳は久保留亜を「話が通じる相手」だと感じていると思う。しかしそんな彼女にも、自身の葛藤については話さない。

まあ普通に考えてそれが正解だろう。基本的に、理解されるような話ではないのだし、市川茂巳もそれが分かっていたからこそ「誰にも話さない」と決めていたのだ。

しかし、ある場面で、「恐らく二度と会うことはないだろう人物」に、ふとその葛藤について話をしてみた。そこでは、その悩みそのものに対しての意味のある返答はなかったが、市川茂巳はその相手から、「人を見下しているから他人に相談出来ないんだ」と言われてしまう。この言葉は、市川茂巳をちょっとぐらつかせただろう。なんとなく分かる。そして、「人を見下しているわけではない」と自分を安心させるためだろう、彼は旧友に相談するのだ。

旧友とその妻に話を聞いてもらったのだが、その場面はなかなか強烈だった。旧友の方は、「お前が何を言っているのかよく分からない」と困惑を見せつつも、理解しようという雰囲気は見せる。しかし旧友の妻の方は、「そんなのあり得ない」と怒り出し、市川茂巳に「帰って」と強い剣幕で言うのだ。

さてこの場面、「市川茂巳に共感できないごく一般的な人」はどう感じるのだろう? 旧友ぐらいの反応が妥当だと思うのか、あるいは旧友の妻ぐらいの反応で当たり前だと感じるのか。僕にはよく分からないが、「市川茂巳に共感する僕」としては、「まあやっぱりな」と感じもした。僕は、「『自分には理解できないこと』に対して『拒絶する』というやり方しかできない人」のことが大変嫌いなのだが、まさにそれが如実に浮き出る場面だった。

市川茂巳はある場面で、こんな風にも言う。

『理解って怖いから』

市川茂巳はかつて小説を書いており、最後に出版した作品以降一切小説を書いていない。そのことについて久保留亜が、「『もう書かない』って言った時、編集者とかになんて言われたんですか?」と聞き、市川茂巳が「もったいないって言われた」と返す。それに対して久保留亜が、「凄い不理解ですね」と口にするのだが、それに対して、「それに救われもしたんだよ。理解って怖いから」と返すのだ。

この「理解って怖いから」という言葉を、市川茂巳がどんな意味で口にしたのか、それがはっきり示唆される場面はないと思うが、僕自身も「理解って怖い」という感覚は持っているので、僕自身の話をしてみたいと思う。

僕は、会話の中でよく出てくる「分かるー」という反応が、あまり好きじゃない。これは別に、「『分かるー』と言われること」が嫌というわけではない。そうではなくて、「あなたはたぶん全然分かってないと思う」と感じる相手から「分かるー」と言われることが嫌なのだ。

もちろん僕にも、「あぁ、この人とはメチャクチャ感覚が合うな」と感じる人は何人かいるし、そういう人から「分かるー」と言われる分には何の問題もない。100%じゃないにせよ、たぶん95%ぐらいは僕の感覚をちゃんと捉えてくれているだろうと、僕自身が信じられるからだ。

ただ、世の中には、そう感じさせない人の方が多い。つまり、「僕の言っていることの芯を全然捉えていないだろうなぁ」と感じてしまうような人だ。そしてそういう人の「分かるー」には、意味が2種類ある。「場を成立させるための意味のない相槌」か、「理解したつもりになっている誤解」である。

前者なら別にいい。そういう相槌は、コミュニケーションにおいては重要だ。しかし、後者であるなら問題だ。そして僕が怖いと感じる「理解」は、まさにこの後者のような反応なのだ。「理解したつもりになっている誤解」と「全然理解できませんという無理解」だったら、無理解の方が遥かにマシだ。

そういう意味で言えば、旧友とその妻の反応はまだマシな部類に入ると言えるのか。

とにかく市川茂巳は、「自分のことなど理解されないだろう」という感覚の中でずっと生きてきたと言っていいだろう。では、彼は一体何を指針に生きてきたのか。

すべてではないだろうが、それを示唆するのが、

『自分の存在が誰かの役に立ってるのかな』

という感覚にあると言えるだろう。この話は元々、編集者である妻が口にしたことだ。担当する作家には、売れるか売れないかなど気にせずに、自分が良いと思う小説を書いてほしいのに、なかなかそれが上手くいかない。明らかに書きたくない小説を書かせているし、それは私の存在がそうさせているのかもしれない。そう悩む妻は、自分の存在に理由に思い悩む。

そして恐らくだが、妻以上に市川茂巳の方が、その感覚をより強く持って生きてきたのではないかと思う。彼は妻の浮気を知った上で、「そんな彼女に、僕がしてあげられることはなんだろう」と考える。僕も、彼のこの感覚は理解できるのだが、一般的には意味不明だろう。妻の浮気にショックを受けず、糾弾もせず、あまつさえ「妻のために何が出来るか」と考えるなど、映画に出てくる若者の言葉を借りれば「SF」としか言いようがないかもしれない。

ただ、映画全体を通して感じることは、「市川茂巳が『誰かのために何かしよう』と考えることで物語が動いていく」ということだ。市川茂巳が「こうしたい」と主体的に考えて状況が動く場面は、旧友とその妻に相談する場面ぐらいではないだろうか。それ以外の場面では、市川茂巳の意思で物語が駆動することはない。常に、「誰かの意思」が存在し、それにどうやって沿うかというスタンスが描かれ続けるのだ。

映画のラストで、「市川茂巳が何故小説を書かなかったのか」について言及される場面がある。彼が常に「誰かのために何かしよう」というスタンスで生きていたとしたのなら、この場面で推定されるその「理由」についても、かなり蓋然性が感じられると言えるだろう。そしてそうであるなら、他の人とは形は違うかもしれないが、やはり市川茂巳の中にも「好き」という感情は確かに存在しているのだと言えると思う。

久保留亜の会見で市川茂巳がした質問について、テレビで観ていたという妻から「正直すぎ」と言われた市川茂巳が、「嘘をつくのは嫌だよ。そうする必要がない場面では」と口にするシーンがある。また、ある小説を読んだ感想を問われ、「僕には必要のない小説だった」とぶった切る場面もある。これらから、市川茂巳が「嘘をつきたくない人間だ」ということが伝わる。それに加えて、ある人物が口にする「過去になってしまった」という発言を合わせて考えた時、彼が小説を書かなかったことは、1つの愛情の形であるという推測は、成り立つように思う。過去になってしまった後、嘘をつかなければならなくなることが嫌だったということなのかもしれない。

そんなわけでとにかく僕としては、市川茂巳がとても良かった。

そして、そんな市川茂巳と、記者会見における短いやり取りをきっかけに深く関わるようになる久保留亜もとても良い。さっきも少し書いたが、僕は「この人とは話が通じる/通じない」という感覚が如実にあって、かなり敏感だと言っていい。そしてそういう僕の感覚からすると、市川茂巳と久保留亜が記者会見でのやり取りから、お互いに「話が通じる」と感じただろうことや、女子高生とおじさんというかなり年の離れた関係ながら、長い時間を一緒に過ごしたみたいな空気感で接することができる感覚は、凄く分かる気がした。僕もたぶん、久保留亜とは、市川茂巳がそうするようなスタンスで関われるなと感じたし、そういう意味でも市川茂巳にメチャクチャ共感してしまった。

久保留亜は、「小説を読むと眠くなる」と言って憚らない、自動車修理工場で働く少年と付き合っている。最初は不釣り合いに感じられたが、次第に考えが変わった。たぶん久保留亜は、周囲に「話が通じる相手」がほとんどいないはずだ。女子高生という立場や見られ方も、「『話が通じる相手』がほとんどいない」という状況に拍車を掛ける。

だからこそ、先程僕が書いた、「理解したつもりになっている誤解」と「全然理解できませんという無理解」の2択で選ぶしかないのだと思う。そうなった時、「小説を読むと眠くなる」というぐらいの「無理解さ」の方が、心地よく感じられるかもしれない。そしてその上で、彼には彼なりの魅力が感じられるのだろう。観客はある場面で、それを強く実感するはずだ。久保留亜と対極に存在するような彼の立ち位置は、彼女には持ち得ないものだからこそ、強く惹かれるのかもしれない。

映画全体としては、とにかく会話の間が見事だった。ストーリーらしいストーリーはあまりなく、それでいて140分という長尺になっているのは、会話がかなりスローテンポで展開されるからだ。そしてそれが、この作品にはとても自然なものとしてハマっている。

表現するのは難しいが、なんとなく登場人物たちの会話は、「相手の会話を聞いた後の反応が半テンポぐらい遅れている」みたいな印象がある。僕たちが普段会話をする時には、存在しないような間が、劇中の会話には存在する。それは、見方によっては「不自然」なものに感じられるかもしれないのだが、まったくそんな風な受け取り方にはならない。たぶんだが、観客はきっと、「自分もこれぐらいのテンポで会話をしたい」と感じるから、不自然に感じられないんじゃないかと思う。普段の会話だと、これだけ間を空けて喋るのは、結構勇気が要るように思う。だから、間を詰めた会話をしてしまう。でも本当は、この映画のようなテンポ感の方が、「心地いい」と感じられるものなんじゃないかと思う。そういう絶妙な会話が静かに展開される物語は、本当に見事だと思う。

あと、市川茂巳と久保留亜の会話における「敬語とタメ口のバランス」も良いと思った。市川茂巳は基本的に誰に対しても敬語だが、時々砕けたような話し方になる。そして久保留亜も、基本的には丁寧に言葉を扱うが、時々タメ口がポロッと溢れる。ともに小説家であり、言葉を大事にする者同士の会話であり、一方で、意識することなく出てしまっているのだろう「気安さとしてのタメ口」みたいなものが時折挟み込まれることで、「急速に距離が縮まったこともあって、礼儀と気安さのバランスが時々バグる」みたいなニュアンスが出て良かった。

ただ、ちょっとだけ気になったのが、登場人物の多くが、会話の中で「えっ?」という反応を多用するのだ。もちろんこれは脚本にそう書いてあるのだろうし、役者の問題だと思っているわけではないが、ちょっと「えっ?」が多すぎないかと感じた。雰囲気も映像も演技も会話もストーリーも全部良かったけど、この「えっ?」だけは僕の中では少し違和感として残ってしまった。もう少しバリエーションがあっても良かったような気がするんだけどなぁ。

いやでもホント、とても良い映画だった。基本的には観るつもりの無かった映画だけど、これは見逃さずに済んで良かったなと思う。

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