【映画】「ヤクザと憲法」感想・レビュー・解説

もの凄く面白い映画だった。凄かった。僕は見たことないのだけど、森達也の「A」に近いタイプのドキュメンタリーではないかと思った。外からは窺い知れない世界に飛び込んでいって、その日常を切り取る。外からのイメージを覆す姿を映し出し、世に問う。実に考えさせられる映画だった。

僕が抱いている大前提が一つある。
それは、「“悪”はなくすことが出来ない」ということだ。
この“悪”というのは別に、ヤクザとか暴力団とかそういう狭い範囲のものを指しているわけではない。もっと概念的な話で、人間という種が存在する限り(人間以外の種に“悪”という概念があるのかはなんとも言えないが)、人間の社会から“悪”という概念がなくなることはないと思っている。
この点に異論がある人もいるだろう。しかし僕は、この前提の元で自分の意見を書く。

例えば、窃盗や殺人などが起こると、基本的にはその行為者が罪に問われ、罰を受ける。この仕組みは、仕方ない。人間という社会をうまく機能させる上で、行為者を罰することなしに実現させることは困難だろう。
しかし、行為者にも、その行為に至った理由がある。それは裁判などで、情状酌量などと言った形で考慮されはするが、しかし基本的には法律も社会もすべて、行為者という個人に責任を負わせる形で納得させようとしている。

でも僕は、世の中に存在する“悪”の多くは、社会そのものが生んでいるのだと考えている。確かに、最終的にその行為に及んだ人物は悪い。しかし、人間が生きていく限り“悪”は存在し続ける。その“悪”は、基本的に低いところに留まっている。そして、何らかの理由でその低い場所に落ちてしまった人間がその“悪”に感染し、行為者として犯罪を犯す。僕はこんなイメージを持っている。

だから僕は常に、犯罪報道などで、犯罪の責任を行為者やその家族に押し付けるばかりのものは、あまり好きになれない。僕は、どんな人でも“悪”に感染する可能性があると思ってるし、“悪”に感染して自力で逃れることが出来る人はほとんどいないだろうと思っている。

僕自身も、基本的には善良な人間だと思っている。でも、人生の様々な場面で“悪”に感染する可能性はあったし、自分が自覚している以上にあったはずだし、実際に程度の差こそあれ悪事を働いたことだってある。

だからこそ僕は、その“悪”を引き受ける機能がどんな時代にも存在したはずだと思っている。
自発的に“悪”を引き受けているわけではない例はすぐに思いつく。黒人を奴隷に使ったり、部落差別が存在したりというのは、そういう“悪”を無理やり押し付けて機能させようとした結果だろうと思う。その時々の権力者は、“悪”の引受先がなければ社会がうまく機能しない、と考えていたのだろう(一応書いておくが、ここでの僕の文章は、奴隷制度や部落差別を容認するものではない。ただ、そういう時代が存在し、それらが“悪”の引き受けてとして機能していたはずだ、という考えを述べているだけだ)。

さて、これをヤクザや暴力団と呼ばれる人たちに当てはめてみる。僕の認識では彼らは、自発的に“悪”を引き受けようとしている集団である。

社会は成熟し、人々は豊かになった。だから社会に存在する“悪”に目を向ける余裕が出てきた。人々は、自分たちがより成熟し、豊かになるために、“悪”を根絶すべきだと考える。そして、暴力団を排除しようとする。

しかし、僕の大前提である「“悪”はなくすことが出来ない」が正しいとすれば、“悪”の引き受け手である暴力団を排除したところで、社会から“悪”そのものが消えるわけではない。“悪”そのものは消えないのだから、結局別の何かがそれを引き受けることになる。

じゃあ、何がそれを引き受けるのか?

特定の集団がそれを引き受けないのだとすれば、“悪”は薄く広く社会に蔓延るようになるかもしれない。あるいは、暴力団とはまた違う引き受け手が現れるかもしれない。あるいは、生活保護者や障害者のような社会的弱者が結果的に“悪”を引き受けさせられる世の中になるのかもしれない。

ここで一旦まとめよう。僕は、人間の社会から“悪”がなくなることはないと考え、暴力団はその“悪”の引き受け手であると考えている。しかも、自ら手を挙げて“悪”を引き受けようとしている集団である、と思っている。

『お互いに気に入らない相手でも、お互いの存在を認めて社会に存在する。それが良い社会だと思う。学校のクラスでも、ちょっと外れた人間はすぐにいじめられて排除される。でも、異質なものの存在を認め合うことが、良い社会なのではないか』

映画の中での発言はあまりにも的を射なかったので僕なりに解釈した文章を書いたが、21歳の暴力団部屋住みの青年がそんな風に語る場面がある。異質だから、というだけの理由で価値観の合わない存在を排除していたら社会は成熟しない。僕はそれは正しい考え方だと思う。暴力団は、確かに僕らの普通の世界の価値観からすれば異質な世界だ。でも、異質だというだけの理由で排除してしまうのは、どうなのだろうか?

もちろん、こういう意見が出てくるだろうと思う。暴力団の抗争や覚醒剤の密売などで実害を被っている人間がいる。そんな危険な存在なのだから排除して然るべきではないのか、と。

細かく議論していきたい。

まず覚醒剤の密売などについて。密売をシノギとして扱っている暴力団もあるだろう。そして、覚醒剤が社会に蔓延することで社会が悪くなっていくというのもその通りだと思う。
しかしそれは、暴力団だから悪いわけではない。覚醒剤を密売しているから悪いのだ。

暴力団だけが専売的に覚醒剤を扱っている、というなら話は別だ。しかし、かつてはどうだったか知らないけど、今はそういう世の中ではないはずだ。いわゆる反社会的勢力ではないごく一般の人間でも、覚醒剤を売る側に回ってしまう世の中になっている。暴力団とは無関係の外国人たちも多く関わっているだろう。
覚醒剤を密売することは悪い。しかし、覚醒剤を密売するのが暴力団だけではない以上、覚醒剤を密売しているから暴力団は悪い、という意見は乱暴に過ぎる。どんな存在であっても覚醒剤を密売するのは悪いことであり、それは暴力団であるかどうかには関係がない。

暴力団同士の抗争のように、暴力団がなければ存在し得ない問題もある。まさに今、山口組と神戸山口組の抗争により、一般市民が巻き添えを食らう事態に発展している。
しかしこれも、暴力団だから、と言いきっていいのだろうか?
例えば、A会社がシェアを伸ばしたために、同業であるB会社が倒産したとする。解雇された従業員が自殺し、その家族が路頭に迷った場合、A会社やB会社の責任を問う声はどれほど上がるだろうか?あまりに飛躍しすぎていると感じるかもしれないけど、「二つの組織の争いにより死者が出る」という状況は、決して暴力団同士の抗争だけで発生するわけではない。僕らが生きている社会でも起こりうることだ。それなのに暴力団同士の抗争だけを非難したい気持ちになるのは、暴力団は悪い、不要な存在だという前提を皆が持っているからだろう。

『何で怖いの?あんたおもろいこと言うなぁ。そんなん怖がってたら生きてられへんで、新世界で。
元気にしてるかぁって声掛けてくれるし、守ってくれる。あんた、警察が守ってくれるん?』

大阪市西成区の大衆食堂のおばちゃんが、指定暴力団・二代目清勇会の会長である川口和秀がやってきた際に言った言葉だ。カメラマンから「怖くないんですか?」と問われた時の言葉。暴力団が地域住民とどういう形で共存しているのか、それについては詳しく描かれているわけではない。しかし、暴力団は怖い、という先入観を持たない人たちからすると、暴力団という存在は警察よりも頼りになると思っているのだ。

先ほどから僕は、暴力団の存在を擁護することばかり書いているが、すべての暴力団を擁護しているつもりはない。悪質な暴力団も存在するだろうし、犯罪を犯せば罪に問われて罰せられるべきだ。しかし、「犯罪を犯せば罪に問われて罰せられるべき」というのは、別に暴力団に限らない。人間として生きている以上、当然の話だ。先のおばちゃんのように、暴力団の存在を受け入れ、信頼している人も世の中には存在している。否応なしに存在する“悪”を引き受けて処理してくれる存在というのは、社会にとって重宝するだろう。

すべて真っ白、一切罪を犯したことはない、という人間はそうそう存在しないだろう。それと同じように、まったく罪を犯さない暴力団というのも存在しないだろう。しかしその存在が、罪を犯すことで発生するデメリットを遥かに上回るのであれば、暴力団というのは存在する価値がある。“悪”の引き受け手として。

暴力団対策法や暴力団排除条例など、暴力団を一律で排除するような法律が生み出され、社会の後押しもあって、暴力団というのは相当にやりにくくなっている。この映画でも、川口和秀氏が様々な組員から集めた事例が紹介される。銀行口座を作れない、ローンを組めない、幼稚園を断られた、などなど。心情としては分かる。暴力団“だから”という理由で何もかも排除してしまいたくなる気持ちはわからないでもない。でも、そういう世の中は怖い。

『人間としての基本的な権利を無視するような圧力が存在する世の中は、怖い社会だと思います』

この映画に登場するある弁護士はそう語る。

日本国憲法は、法の下の平等を掲げている。人種や性別や信条などによって差別されてはならない、としている。罪を犯した人間は当然罰せられるべきだ。しかし、罪を犯したわけでもないのに、ただ怖いというだけの理由でその存在を排除しようとする風潮は、僕も怖いと思う。

『ヤクザのこと、認めん言うことやろ。
本当に認めんのやったら、みんななくしたらいい。選挙権もなくしたらいい。』


この映画で描かれるのは、主に三箇所である。

◯ 大阪市堺市 指定暴力団二代目清勇会事務所
◯ 大阪市西成区 指定暴力団二代目東組本家
◯ 大坂市北区 山之内法律事務所

主に映されるのは、清勇会の事務所。東組は清勇会の本家だ。また、山之内法律事務所は、山口組の顧問弁護士を務めている山之内幸夫氏が代表を務めている。

◯ 謝礼金は払わない
◯ 事前にテープのチェックをさせない
◯ モザイクは原則なし

これが、東海テレビが出した条件であり、暴力団側はその条件を飲んでカメラを受け入れた。

もちろん、カメラに写ったらまずい部分ではカメラを切らせる。また、カメラがあることで、普段はしているが自粛していることだって当然あるだろう。だから、完全に暴力団の日常を切り取っているかというと、そんなことはないだろう。何をシノギ(金を集める手段)にしているのかもはっきりとは分からず、何らかの形で犯罪行為に手を染めているのかもしれないけど、さすがにそれはちゃんとは描かれない。毒気が抜かれたものを見せられている可能性は十分にある。

とはいえ、そうだったとしても、こういう形で暴力団の日常を垣間見る機会はない。

中心的に扱われるのは三名。清勇会の会長である川口和秀氏(61)、20歳になってすぐ清勇会に入った部屋住みの松山尚人氏(21)。組員の一人である河野裕之氏(49)。

川口氏は、そこまで登場しないが、存在感がある。とても61歳には思えない若々しい姿だ。驚いたのが、川口氏の後ろについて、カメラが飛田新地に入っていったこと。もちろん、女の子は写されないが、写真や映像の撮影が一切許されない飛田新地で撮影が出来たということは、清勇会あるいは東組のシノギの一つが飛田新地の元締めなのだろう。

殺人を教唆したとして22年刑務所に入っていたことがあるという。川口氏が逮捕されるきっかけとなった、通称キャッツアイ事件は、暴力団対策法制定のきっかけになった事件とも言われているらしい。

部屋住みの松山氏は、とにかく雑用をしている。徹底的に掃除をする理由は、「組事務所は聖域だと思っているから」だ。食事を作ったり、舎弟(会長の弟という意味で、組内における立場はとても高い)にお茶を出したりと、やれることは何でもやる。時にめっぽう怒られるが、舎弟は松山氏に対して「親のような気持ちで接してる」と語る。

松山氏は、宮崎学のファンだそうで、清勇会の事務所に来るにあたって唯一自宅から持ってきたものが、宮崎学著「突破者」という文庫本だけだったという。宮崎学が雑誌で対談していた相手が川口和秀氏であり、それで清勇会の門を叩いたという。

『これぐらいの年の頃は遊びたい盛りだろうに、なんでこんなところにいるんだか。気がしれませんわ』

舎弟はそんな風に言う。

河野氏は、部屋にカメラマンを呼ぶ。結婚していた頃の写真を見せたり、暴力団に入るに至った経緯などを語る。

『(暴力団に入ることに抵抗はなかったですか?という問いに対して)
なかったですね。世の中って、褒めてくれたり助けてくれたりしないでしょ?(世の中が)助けてくれます?』

極貧の子供時代を送り、きちんと働こうとしても取引先が倒産したりなどうまくいかない日々。そんな時、食事や家や風呂の世話をしてくれたのが今の兄貴だったのだと言う。世の中は自分を助けてくれないけど、暴力団は助けてくれた。だから、世の中にどう思われたって構わない。そう語る河野氏を説得する言葉を持つ人間は、いるだろうか?

暴力団側の描写は、日常を切り取ったものの他に、葬儀や警察によるガサ入れもある。特に警察によるガサ入れには考えさせられた。ある人物が詐欺未遂で逮捕されるのだが、逮捕される前にその人物の話を聞く限り、“横暴”という言葉が浮かんでしまう。暴力団排除の流れがあまりにも過剰だということを如実に切り取っていると感じた。

『「だったらヤクザを辞めればいい、って話が絶対に出てくると思うんですが」
「どこで受け入れてくれるん?」』

暴力団は、元々ほとんど存在しなかったはずの“悪”の増幅装置なのか、あるいは、これ以上“悪”を増やさないための抑止力なのか。暴力団というものをどう捉えるかで、考え方は様々に存在するだろう。僕の意見が絶対に正しいとは思わないが、僕はこの映画を見て一層、暴力団というのは抑止力として機能しているのではないか、と感じた。


山之内幸夫氏は、五代目山口組の若頭・宅見勝氏と出会ったことで運命が変わる。宅見氏から、顧問弁護士を引き受けてもらえないかと打診されたのだ。

『一ヶ月ぐらい悩みましたよね。
一番は、人がどう見るか。悪い弁護士だという風に見るんだろうな、と。僕はいいんですけど、家族が、妻と子供が辛い思いをするんじゃないかと。そこが一番悩みました』

それでも、ヤクザの世界への興味に負けたという山之内氏。暴力団の顧問弁護士ならお金いっぱいもらえるんじゃないですか?という問いに、事務所のスタッフは、暴力団は今お金ないからねー、と語る。顧問料は、月10万円だそうだ。一時5人いたスタッフは、給料を払えなくなり、今では1人だ。

『「笑顔で帰ってこれるようにね」
「いやー、無理でしょう」』

この映画の中で山之内氏の人生がどんな決着を迎えるのか、その過程は書かないでおこう。「ヒットマン」という単語を日本に定着させ、「ミナミの帝王」の法律監修をしているという山之内氏は、『社会から消えろと言われてる気がしますね』と笑いながら語っていた。


分かり合えない者同士が、それでも同じ社会の中に存在している。それが良い社会なのではないかと、21歳の松山氏は語っていた。本当にその通りだと思う。“悪”の存在を許容せず、“悪”をひたすら排除しようとする行為は、僕は無意味だと思う。もし暴力団という“悪”を排除することに成功したとしても、その歪は社会全体のどこかに必ず現れる。この映画は、作り手側の具体的なメッセージが色濃いわけではない。基本的には、目の前の事実を淡々と記録している観察者に徹している。もちろん、バイアスもあるし、隠されている部分もあるだろうが、普段知ることのない世界の断片を見て、もう一度、“悪”との関わり方について考えてみるのは大事ではないかと思う

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