【映画】「死刑台のメロディ 4K リマスター・英語版」感想・レビュー・解説

さて、4Kリマスター版で劇場公開されていた本作を観ようと考えた理由はただ1つ。エンリオ・モリコーネである。

エンリオ・モリコーネのことは、割と最近知った。『モリコーネ 映画が恋した音楽家』というドキュメンタリー映画を観たのだ。エンリオ・モリコーネが世間的にどれぐらい有名な人なのか僕にはよく分からないが、少なくとも僕は、このドキュメンタリー映画を観るまで彼のことは知らなかった。

エンリオ・モリコーネは、映画音楽の世界ではパイオニアであり生涯トップランナーだった。映画音楽のために書き下ろした曲は500を超えると言われており、91歳で亡くなる数年前に手掛けた映画『ヘイトフル・エイト』の音楽でアカデミー賞作曲賞を受賞している。楽器は一切使わず五線譜とペンのみで作曲するという、このエピソードだけで「天才」だと分かる人物であり、そんな凄まじい話には枚挙にいとまがない。

で、そんなエンリオ・モリコーネが作曲を務めた2作品、『死刑台のメロディ』と『ラ・カリファ』の特選上映が組まれたとのことで、『死刑台のメロディ』についてはまったく何も知らないまま、エンリオ・モリコーネという名前だけで本作を観に行った。

なので、「実話が基になっている」ということに驚かされた。しかもその事実は、映画の冒頭などでよくある「実話を基にした物語」のような表記で知ったのではなく、「これ、実際の映像を使ってるよな」と感じる場面があったからだ。

本作で扱われているのは、1920年代のアメリカで実際に起こった冤罪事件である。逮捕・起訴され、死刑に処された2人の名前から、「サッコ=バンゼッティ事件」と呼ばれている。

映画の冒頭ではまず、当時のアメリカの状況が描かれる。当時は、アメリカに限らないだろうが、共産主義に対する懸念が世界的に高まっており、パーマー司法長官は徹底した「アカ刈り」を行っていた。当時は「労働組合の集まり」でさえ「共産主義の集会」と見做されて弾圧されていたようで、共産主義者と見做されれば国外退去が明治られるような時代だった。

そのような時代に不運な境遇に置かれてしまったのが、イタリアからの移民である靴職人のニコラ・サッコと魚売りのバルトメオ・バンゼッティである。彼らは1920年5月5日に逮捕された。当初は、「携帯を許可されていない銃を所持していた」という容疑だったのだが、彼らがイタリア移民であると分かったことで、警察からの追及が厳しくなる。

しかしその追及は、2人には何のことかさっぱり分からないものだった。ひと月ほど前の4月15日に、靴工場で現金強盗殺人事件が起こったのだが、何故か2人はその犯人と目されていたのである。

彼らは拘束され、裁判に掛けられた。2人の犯行を示す決定的な証拠はない。当然だ。彼らの犯行ではないのだから。しかし、法廷には様々な証人が登場し、2人にとって不利な証言を行う。弁護士は必死に反論を繰り出すが、検事ばかりか、判事さえもグルになって2人を有罪にしようとする雰囲気を感じ取り、声を荒らげてしまう。しかしその度に判事から注意される始末だ。

一方、社会はこの2人の扱いを不当と判断し、アメリカのみならず世界的に反対運動が起こるようになる。

2人を救い出そうという動きは大きくなり、やがてその動きは知事のところまで届くのだが……。

観ながら、つい最近始まったドラマ『アンチヒーロー』を連想した。ネタバレになるので詳しくは言えないが、『アンチヒーロー』の第二話でも「権力側の凄まじい横暴」が明らかになる。もちろん『アンチヒーロー』は実話ではないが、しかし、「あり得る」と感じさせるリアリティを有していたと思う。

「共産主義」と聞くと、やはりどうしても良い印象を持ちにくいのだが(まあそれはそれで、資本主義側からのある種の洗脳の成果と言えるのだとは思うが)、しかし本作では明確に、「共産主義者側の主張の方が理にかなっている」と感じた。

弁護を引き受けたムアは当初、「裁判で政治は無しだ」とカッツマン検事と話していた。初めこの意味がよくわからなかったのだが、後半の展開を踏まえれば、「被告2人が共産主義者であるか否かは争点にしないでもらいたい」ということだと思う。なので法廷の前半においては、そのような”政治的な話”は出てこない。

しかし方針を転換し、ムアは法廷で「被告2人がアナーキストである」という事実を全面に押し出すことにした(正直僕は、共産主義者とアナーキストの違いはよく分かっていないが、大体同じだろうと判断した)。そしてそうなって以降、被告の2人は「アナーキストとしての信念」を法廷の場で口にすることになる。

その彼らの訴えが、とても良かった。

いや、主張自体は別に、アナキズムとか共産主義の基本的な話なのだと思う。ただ、それが語られている場が、「権力が凄まじい横暴さを発揮し、無実の人間を無理やり有罪にしようとしている法廷」であるという点に意味があると感じた。

法廷ではないのだが、ある場面でバンゼッティが「暴力」について語る場面がある。要約すれば、「権力は暴力の上に成り立っている」となるだろう。それを受けて権力側の人間が、「アナーキストが暴力について語るのか?」みたいなことを口にする。当時は革命や暴動みたいなことが頻発していたのだし、それらが共産主義者・アナーキストの仕業だと見做されていたのだろう。それを踏まえての発言だ。

観客の立場からしても、明らかに「権力側が暴力を有している」と感じる。しかしそのことに権力側が気づいていない(あるいは、敢えて無視している)。そしてそのこと自体もまた、凄まじい「暴力」だろうと感じるのだ。

人類の歴史は、このような「不公平」の是正の歴史と言っていいだろう。大きな流れで見れば、不公平は徐々に薄まっていると言える。しかし当然のことながら、社会のあちこちにまだ不公平は蔓延っているし、権力は様々に形を変えてその不公平を利用しようとしてくる。

一昔前の事実を知ることで、僕たちは、「いつでもこんな時代に戻り得る」と自覚することが出来るようになるし、そうならないように踏ん張らないとなとも思う。

さて、音楽だが、全体的に曲がないシーンが多く、それ故にドキュメンタリーっぽさが強まっていると言える。普段あんまり意識して映画音楽を聞いたりしないので(まあ、映画音楽はそれで正解だろう)、エンリオ・モリコーネの凄さについては正直良くわからなかったが、映画としてはなかなか圧倒される作品だった。

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