【映画】「福田村事件」感想・レビュー・解説

映画は昨日公開だが、今日僕が観に行った映画館では、4回の上映がほぼ満員だそうだ(これから上映される18:00の回はまだ若干空きがあるようだ)。僕はこういう、実話を基にした作品を結構観に行くが、そういう作品の客入りは常に多いとは言えないので、この盛況ぶりはなかなか良いことに思える。

クソみたいな時代の話だ。

そして、僕らが生きているのもまたクソみたいな時代なのだから、この映画から学べることは多いだろう。「自ら武器を持ってとどめを刺すか」どうかの違いだけで、この映画で描かれている出来事は、今この瞬間にも、世界のどこかで起こっている。

さて、映画についてあれこれ書く前に、1つだけ書いておきたいことがある。それは、「この物語は、どこまでが事実なのか」ということだ。先程ざっくりウィキペディアを読んだのだが、この事件は長らく表沙汰になることはなく、1980年頃からようやく調査の動きが出始めたのだそうだ。映画のラストには、「9人の被害者遺族と、6人の生存者は、その後もこの事件の詳細について語ることはなかった」と字幕が表記された。

映画では、「事件直後の現場に、千葉日日の記者がいた」ということになっている。しかし、この描写も事実かは不明だ。ただ、もし現場に、福田村の住民以外の者たちがいなければ、この事件はまったく表沙汰になることはなかったかもしれないので、記者がその場にいたという事実はあったのかもしれない。

さて、少なくとも言えることは、「事件が起こる以前の人間関係については、かなりの部分フィクションだろう」ということだ。これはあくまで僕の推測だが、いくら新聞記者が現場にいたとしても、事件に至るまでの間に「戦没者の妻が不貞を働いていた」「朝鮮から戻ってきた夫婦関係に色々問題があった」みたいなことまで記事にすることはないだろう。また、事件の被害者側の人間が後に何らかの証言をしたとしても、彼らが福田村の住民について詳しいことを知っているはずもない。

いわゆる「福田村事件」と呼ばれている事件は、1923年9月6日に起こったのだが、この映画で描かれる9月5以前の物語については、恐らくそのほとんどが創作だろう、と僕は考えている。

もちろん、だからと言って別に「この映画がダメだ」などと言いたいわけではない。むしろ、ノンフィクションやドキュメンタリーとして記録できるほど情報が存在しない出来事を、フィクションを取り込みながら後世に伝えていくことは大事だと思う。ただやはり、観る側のスタンスとしては、「大半はあくまでもフィクションである」という見方を崩してはいけないだろう、とも思う。

さて、この映画で描かれる根幹となる事件は、「千葉県に薬の行商にやってきた香川県の部落民が、関東大震災直後、朝鮮人と間違われて殺された」というものである。映画では、「何故そんなことが起こってしまったのか」について、福田村の住民の様々な人間関係を丁寧に描きながら描像していくのだが、やはりまず、「朝鮮人と間違われて殺された」という部分の背景について書いておくべきだろう。

昨日、9月1日だったこともあり、ちょうど100年前に起こった関東大震災と、それに絡めた防災に関する番組を各局が流していた。それもあって知っている人も多いかもしれないが、関東大震災の直後には、「朝鮮人が火をつけて回っている」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語が飛び交っていた。関東大震災で多大な被害を受けた者たちは、「これ以上の被害をもたらさないように」と、自衛のためと称して朝鮮人を見つけ次第殺していた。怪しい者を見つけると、「15円50銭と言ってみろ」と声を掛ける。朝鮮人は「がぎぐげご」の発音が出来ないとかで、「15円50銭」と言えなかった者は朝鮮人とされ殺されてしまうのだ。

さて、この背景についても、映画の中では2つの出来事が描かれる。

1つは、「韓国併合以来、日本人は朝鮮人をいじめ抜いてきた」という自覚である。朝鮮では朝鮮人を騙して土地などを奪い取り、あるいは低賃金で働かせ続けるなどしてきた。だから日本人の中に、「これだけいじめ抜いてきたのだから、関東大震災の混乱に乗じて復讐されてもおかしくない」というような感覚があったというわけだ。それゆえ、「やられる前にやる」という気分が醸成されたと言っていいだろう。

もう1つは、千葉日日を舞台に描かれる「メディアのあり方」である。千葉日日の女性記者は上司から「ケツの文章を変えろ」と言われる。強盗などが起こり、その犯人がまだ分からない場合、「朝鮮人や社会主義者がいずれ捕まるだろう」と、あたかも彼らが悪いかのように書くというのが、当時の常識だったようなのだ。女性記者は、上司からの命令に毅然として立ち向かい、新聞記者としてあるべき姿を追い求めようとする。もし新聞が、お上の言うことを垂れ流さず、正しい事実を伝える役割を担っていたら、仮に関東大震災直後の不安な状況下であっても、市民が朝鮮人を敵視し殺すような状況にはならなかったかもしれない。

さて、今ここで書いたようなことは、まさに今僕らが生きている現代にもそのまま通用する話だということが理解できるだろうか?

自然災害が起こるとデマや流言が広まるのは、今も同じだ。「動物園からライオンが逃げ出した」というデマや、CG加工やAIによる画像生成などにより、実際とは異なる画像・映像を作成し広める人物も出てくる。人種差別的な根を持つデマも、平時より一層多く流れることだろう。SNSが発達した現代においては、1923年当時よりも遥かに酷い状況になっているだろう。

「やられる前にやる」とは少し違うが、現代においては、「表に出て顔を晒す有名人」と、「ネットの奥深くにいる匿名の人物」の非対称性が、誹謗中傷を信じられないレベルで押し広げている。有名人の自殺(あるいは、恐らく自殺だろう状況)が報じられることが多くなった印象があるが、その陰には間違いなく「匿名の刃」があるはずだ。それは、「やられる前にやる」以上に酷い状況であり、これもまた、「福田村事件」の時代よりも遥かに悪化していると言っていいだろう。

メディアは益々、お上の顔色を伺うようになっている。僕は、『殺人犯はそこにいる』で警察がいかに情報を捻じ曲げるか知ったし、映画『テレビ、沈黙』で、「放送法の解釈変更」を巡る現状についても理解した。メディア企業のトップが当たり前のように政権トップと会食し、「物言うキャスター」を次々に排除している現状は、「記者が見た事実ではなく、内務省からの通達に書かれた伝聞の方を信じて報じる千葉日日の上司」と大差ないだろう。ジャニー喜多川による性加害問題について、マスコミ各社が「報じなかったことの責任」について言及したことは記憶に新しいが、これもまた別の形で「権力に抗えなかった事例」と言っていいと思う。

映画『福田村事件』で描かれるのは、マジでクソみたいな現実だが、しかし、それを「クソみたいな現実」と感じるのであれば、僕らが生きているまさに今この瞬間も「クソみたいな現実」と捉えなければ辻褄が合わない。今指摘した通り、「福田村事件」が起こった当時以上に、我々を取り巻く状況は凄まじく悪化しているのだから。

この映画を観た人がどんな感想を抱くのか分からないが、「昔はホント酷かった」「こんなサイテーな現実があったなんて」と捉えているだけではダメだろう。ちょうど100年前の出来事を見て、僕らが今生きている現実の酷さに思い至らなければ、恐らく、この映画を制作した人たちの思いは報われないように思う。

映画では、殺されてしまった香川県の行商人たちが「部落出身の穢多」であることが示唆される。この部落差別の問題もまた、現代において解決しきれていない問題だ。僕は以前、『私のはなし 部落のはなし』というドキュメンタリー映画を観たのだが、そこでは、令和の現代においても、未だに部落差別問題が根強く残っている現実が描かれていた。

映画の中で、「朝鮮人なら殺してもええんか」というセリフが出てくるが、まさにその通りだ。この言葉は、対立や問題が顕在化している様々な状況において頭に思い浮かべるべきものだろうと思う。

問題は、「朝鮮人かどうか」ではないのだ。そもそも、「それが誰であっても、私刑を許してはならない」のである。目の前にいるのが朝鮮人なのかどうかという問いに留まっている内は、「朝鮮人だったら殺されても仕方ない」という意見に与しているとみなされても仕方ない。

そしてこのような状況もまた、現代の様々な場所で起こっているだろう。

例えば、同性婚を認めない人の意見の中に、「同性婚は子どもを産まないから」というものがある。しかしこの捉え方は、「同性婚で、子どもを持たないと決めた夫婦(いわゆるDINKs)」を否定しているとも捉えられるだろう。もちろん、「同性婚は子どもを産まないからダメだ」と言っている人が「DINKs」も否定しているのなら、一貫性という意味では悪くはない。しかし、「子どもを産まないから同性婚は認められないが、同性婚をするのであれば子どもを産まなくても良い」と考えている人がいるのであれば、それは矛盾極まりない。

そして、そのような矛盾に気づかないまま、「同性婚は子どもを産まないからダメだ」みたいな主張をしている人が多いような印象がある。

映画の中で、「自警団を作って守れと言ったのは、お前たち警察じゃないか。お上じゃないか。ワシはお国のため、村のために……」と言って泣き崩れる人物が出てくる。個人的には、本当に碌でもない人間だと感じるのだが、本人は本気で「お国のため、村のため」と考えているのだろうし、だからこそメチャクチャ厄介でもある。

映画では、様々な場面で「お国のため」という言葉が出てくるのだが、聞けば聞くほどこの言葉は、「相手に思考停止を促して強制するためのもの」にしか聞こえない。「お国のため」と言えば、「それに反論してくる奴はすべて非国民」みたいな理屈をつけられるから、最強の弁論と言っていいだろう。そして、そんな最強の弁論を使わなければ相手を説得できないクズが軍人、あるいは在郷軍人として威張り散らしていたからこそ、このような最悪な状況が起こってしまったとも言える。

今の時代も、「論破」みたいな言葉を使って相手の主張をぶった斬るようなスタンスが流行っているようだが、これも結局、「最強の弁論を使わなければ相手を説得できないクズ」の主張と言っていいと思う。「はい、論破」などと言って勝ち誇るためには、相手からの反論を許さないような「最強の弁論」を突きつけるしかないからだ。

しかし大体の場合、そういう「最強の弁論」は、何かがおかしい。理屈は通るし、議論の場においては成立するのかもしれないが、やはりそのような「最強の弁論」は、現実世界の中では上手くはまらない。

「はい、論破」と言って相手をやり込めることが趣味の人は、自分が「お国のため」と同じようなことを言っていないか、注意した方がいいだろう。「論破」というのは結局、「議論に勝った」ことを示すのではなく、「己の思考停止」を示すものに過ぎないかもしれないのだ。

このように、考えれば考えるほど、『福田村事件』は、僕らが生きている現代社会を描いているようにしか感じられない。映画の舞台となるのは、多くが百姓であり、軍人が強く、竹槍で敵と闘うような「大昔」なのだが、そこに生きる人々の頭の中は、2023年を生きる僕らと大差ないし、なんなら僕らの方がよりイカれてしまっているとさえ言えるかもしれないのだ。

そういう物語として受け取るべき作品だと思う。

物語は、事件の半年ほど前から描かれていく。香川県三豊郡では、薬の行商のため、男女妊婦子どもを含む15人が生まれ故郷を出発した。半年ほど掛けて関東の方を周り、薬を売って生計の足しにするのである。彼らは部落出身であり、特に関西ではまともに相手にされない。だからこそ、自分たちよりもさらに立場の弱い、例えば病人なんかからお金を巻き上げるようにして生きていかなければならない。親方である沼部新助は、そのことを悲しいことだと理解しながら、彼らも生きていくために薬を売り続けるしかない。

千葉県東葛飾郡の野田町驛に、夫の遺骨を抱えた未亡人・咲江と、朝鮮から引き上げてきた夫婦が乗っていた。駅には千葉日日の記者もおり、英霊となって戻ってきた戦死者遺族の写真を撮ろうと待ち構えている。咲江は実は、夫の出兵中に渡し船の船頭である倉蔵と関係を持っていることが知られている。

朝鮮で教師をしていた澤田智一は、出身である福田村に戻り百姓をやると決めている。妻の静子と共にハイカラな格好をして戻ってきており、明らかに浮いているが、澤田はもう教師はやらないと決め、慣れない畑仕事に精を出している。駅で20年ぶりに再会した龍一は、世襲で福田村の村長になっており、盛んにデモクラシーについて語っている。同じく同学年の秀吉は、在郷軍人のお偉方として威勢よくしており、後の事件においても重要な役割を果たすことになる。

関東大震災が起こる9月1日までの間に、福田村では様々な人間関係が描かれていく。咲江と倉蔵の関係、在郷軍人に楯突く倉蔵、倉蔵の船に頻繁に乗る静江、静江からの夜のアプローチを拒む智一、馬を育てる一家とある疑惑を抱き続ける元兵士。あるいは、上司に楯突く女性記者や、その女性記者が社会主義的な演劇人の取材に行く様などが映し出されていく。

そして9月1日。後に関東大震災と呼ばれることになる大地震が起こる。既に福田村までやってきていた行商人たちは、震災直後の殺気立った中で動くのを諦め、しばらく様子を見ていた。そして9月6日、朝鮮人から身を守るためとして組織された自警団の解散に伴って、行商人は利根川を渡るため動き始めるのだが……。

というような話です。

個性の強い役者たちが、個性の強い役柄を上手く演じ、さらに、その個性の強さが互いを打ち消し合うような方向に働くのではなく、「狂乱」と呼んでいいだろう最悪の状況に至るまでに相互に高めあっていく感じがとても良かった。事件自体が描かれるのはかなり後半だが、「その状況下で、それぞれの登場人物が何故そのような行動を取ったのか」が理解出来るような形で、それまでの展開の中で個々の描写がなされており、事件に至るまでの描写の重要性が理解できる。映画で描かれる状況下においては、「お上の言うことは正しい」という人物の方が圧倒的に多いのだが、『福田村事件』における主要な登場人物が概ね「はみ出し者」であるため、彼ら「はみ出し者」の視点で当時の雰囲気や事件が描写されることになる。そしてそのような描き方だからこそ、「良識のある人間が一定数いたところで、群集心理の前では多勢に無勢である」という無力感がより伝わるという構成になっている。

主にドキュメンタリー映画を撮ってきた森達也による、(恐らく)初の劇映画であり、そういう点でも話題になっている作品なのかもしれない。森達也のドキュメンタリー映画は、常に「撮る者の主観をドキュメンタリーから排除することは出来ない」というスタンスに彩られており、この『福田村事件』という映画もまた、「個々人の視点からは見えている現実が異なる」という感覚が含まれているように感じた。

また、映画の中で様々な人物が「自分の目で見たことの重要性」について口にする。村長が、福田村に逃げてきた、朝鮮人に関する噂を口々に放つ者たちに「自分の目で見たのか」と問いかけたり、あるいは女性記者が上司に、「自分の目で見たことよりも、内務省の伝聞を優先するのか」と問いかけたりする。このような視点もまた、ドキュメンタリー映画を取り続けてきた森達也の問題意識が含まれているものではないかと感じる。

あるいは、また別の方向性から、「見ているだけの者」に関する描写もなされる。これについては具体的に触れないが、映画全体として、「自分の目で確かめることは大事だし、そしてそれ以上に、見たら何か行動することが大事だ」というメッセージが込められているように感じられた。

ちょうど100年前に起こった出来事は、まさに鏡のように、現代の僕らの姿を映し出しているのである。

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