【映画】「アメリカから来た少女」感想・レビュー・解説

静かに淡々と、「家族のままならなさ」を描く映画だった。基本的には「誰も悪くない」のに、家族がどんどんと良くない方向に進んでしまう様がリアルで、なんとも言えない気分になる。

映画を観ながら改めて、「『家族』っていうのは、もう少し緩いまとまりとして認識されないものだろうか」と感じた。

僕はいつも、「家族」という括りが強すぎると思っている。「家族だから」という言葉が、あらゆる物事を拘束しすぎる。

映画で描かれるのは、その「拘束」が元々緩い家族だったはずだ。理由ははっきり分からないものの、父・母・娘2人のこの家族は、台湾に父を残し、女3人でロサンゼルスで暮らしていた。いわゆる「普通の家族」とは違うスタンスで生きてきたのだと思う。

しかしそんな家族でさえも、結局、「家族」というものが拘束具のように機能してしまう。そういう悲しみみたいなものが描かれているように感じられた。

家族がたまたま、同じような生き方をしたいと考えているのなら良い。ただ、必ずしもそうとは限らない。そうであっても、「家族だから」という言葉が強く機能してしまう理由が、僕にはイマイチ理解できないでいる。

もちろん、お金や法律や社会システムなど様々な理由から、基本的には「家族が一緒に生活すること」が最も労力が少ないように出来ているだろう。しかし、だからと言って、それしか選択が許容されない社会は嫌だなと思う。

僕は、「同じ生き方をしたいと考えている者同士」が「家族」と呼ばれるような、そんな緩い社会でも良いのにな、と思う。もちろん、「生みの親である」ということの立場は変わらないが、育っていく過程で血の繋がった家族から離れ、近い生き方を望む者と関わっていけるような、そんな社会でもいいのにな、と。

昔からそういうことは考えていたが、改めてこの映画を観て感じさせられた。

内容に入ろうと思います。
母リリーと、2人の娘ファンイー、ファンアンは、アメリカから台湾へと戻ってきた。父のフェイと久々に再会し、カビだらけの狭いアパートで生活を始める。古いアパートはダイヤルアップのネットがほとんど繋がらず、ファンイーはロサンゼルスの友人ジェシーと連絡が取れずにいる。アメリカではオールAだったファンイーは名門中学校への編入が決まったが、校則で髪を短く切らなければならないことに苛立ちを覚える。台湾では、謎の感染症が広がり始めていた。後にSARSと名付けられ、市民を恐れさせる。
母リリーは乳がんだった。アメリカで2cmだったものが、台湾での検査でさらに大きくなっている。すぐに手術が必要な状況だ。しかし彼女は、子供たちが学校に慣れるまではと渋る。夫が、そんなこと言ってる場合じゃないだろと、手術を決断させる。
アメリカの学校で育ったファンイーは、台湾の学校の環境に窮屈さを覚える。未だに体罰が当たり前に存在し、保護者も「教育には体罰が必要だ」と考えていた時代のこと。かつて近所に住んでいたスーティンは話し掛けてくれるが、しかし学校では「アメリカン・ガール」と呼ばれて疎外感を味わう。母からは、父とは中国語で話しなさいと言われるが、ファンイーも妹のファンアンも、事あるごとに英語で会話をし、母に怒られている。
ファンイーは、アメリカに帰りたいという希望を隠そうとしない。母親が乳がんであり、死んでしまう可能性もゼロではないと分かっていてなお、彼女は現状を許容せず、アメリカでの生活を希う。
ファンイーは帰国当初、父に対しても八つ当たりのような振る舞いをしていたのだが、次第に母よりも父と関わることが増えてくる。同時に、「自分が死んだ後のこと」ばかり話をする母に対して、自分の中でも消化しきれない苛立ちを募らせていくことになる。
彼女はジェシーと連絡を取ろうと入ったネットカフェでブログを開設、そこで母への愚痴を書き連ねていたのだが……。
というような話です。

ストーリーも舞台もとてもミニマムなもので、だからこそ役者の演技力が重要になる映画だと思いました。そして、子どもたちも含め、難しい状況に直面する家族のままならなさを見事に演じていると感じました。

公式HPを観ると、ファンイー役の子は演技未経験だったのだそう。そんなふうには感じられなかったのでちょっとビックリしました。

ちなみに、ファンイーについては、この映画の監督のほぼ実体験なのだとか。舞台がSARSが蔓延している2003年だったのも、著者自身の経験が反映されているからです。ダイヤルアップのパソコンとか、今より印象が悪かったネットカフェとか、ガラケーとか、そういう「一昔前の雰囲気」が随所に出ていて懐かしさもありました。

そして、その一昔前の台湾だからこそ、余計に「アメリカ」との差が強く意識されたのだろうと思います。今の台湾がどんな感じか知っているわけではありませんが、少なくとも「教育には体罰も必要」なんていう保護者はいないでしょう。以前と比べればかなり自由になっているはずです。もしファンイーが、今の時代の台湾に戻っていれば……と思いますが、今は今で中国との問題でややこしくなっているので、また別の問題が生まれるだけでしょう。なかなか難しいものだなと思います。

映画では、「彼らが何故父を置いてアメリカに行ったのか」はイマイチ分かりませんでした。「自由な世界を見せてあげたい」みたいなことだったのだと思うけど、にしても、父だけ置いて3人でアメリカというのはなかなかの決断でしょう。ファンイーもある場面で母に「どうしてアメリカに連れて行ったの?」と聞くし、母は母で親族の誰か(自身の姉か、あるいは夫の姉か、どちらでもないか)に、「あなたの言う通り、アメリカになんて行かなきゃよかった」みたいなことを言っています。まあ、乳がんを患ってしまったのは不運だったし、それさえ無ければ彼らのアメリカ行きはきっと良い決断だったのだろうから、たらればであれこれ言っても仕方ありませんが、「結局のところどうしてアメリカへ?」みたいなところがちゃんとは捉えきれなかったなと思います。

ファンイーはあまり感情を表に出さない人物で、だからこそ、最後ある場面で恐らく初めてだろう涙を流す場面は印象的でした。「味方になって」という言葉は、「私には味方がいない」という切実さを強く感じさせるし、抑えていたものを一気に吐き出したみたいな感じが良かったです。

これと言って大きな盛り上がりがあるわけでもなく、淡々と展開して終わっていく映画なので、なかなか勧めにくい部分もあるが、静かな中に様々な登場人物の「譲れない芯」みたいなものが描かれる感じがいいと思う。

この記事が参加している募集

#映画感想文

65,841件

サポートいただけると励みになります!