映画「メッセージ」と小説「光の犬」

いろいろな映画や本を観たり読んだりしていると、思いもかけない作品同士が繋がって、何かを消化するヒントになることがある。「思い出」はどうしてあんなに美しいのか。そんなことが急に分かったりすることもある。

2017年に「メッセージ」というSF映画が話題になった(注:盛大にネタバラシをします)。突然地球にやって来た宇宙人とコンタクトを取るために、軍に依頼された言語学者が彼らの言葉を解読して…という話だ。

詳しい説明は省くけれど、エイミー・アダムスが演じたこの学者は、「時間の概念」を超越した宇宙人の言葉を解き明かすにつれて、自らも未来の出来事が見えるようになる。劇中では彼女が愛娘を亡くして悲しみに暮れるシーンが挿入されるが、物語の最終盤で実はそれが彼女が見ていた未来だったことが明かされる。若くして死んでしまう娘は、この宇宙人ミッションで親密になった男性との間に生まれる子で、その死をきっかけに二人がつらい別れを迎えることまで彼女は知ってしまうのだ。そして、それでも主人公はこの男性と結ばれることを選び、映画は静かに幕を閉じる。

大風呂敷を広げたSF大作に見せかけて、とても個人的な人生の選択に着地するこの映画が残す余韻は、「自分ならどうする?」と考えずにはいられない。つらく悲しい結末を受け入れてでも、限られた短い幸せを選ぶ価値は本当にあるんだろうか。

この問いへの僕なりの答えを見つけたのが、松家仁之さんの「光の犬」という本を読んだ時だった。何人かの登場人物の短いエピソードが、時間の流れもバラバラに、落ち葉のように積み重なっていく不思議な味わいの小説だ。この物語では、ある登場人物の死がひどく精密に描かれる。読んでいて胸が潰れそうになるとても辛い場面で、その日はそれ以上読み進めることができなかった。ところがその章を終えたページの上に、今度はその人の青春時代の輝かしい一場面が生き生きと立ち現れて、僕は救われた気持ちになった。彼女の最期を見届けた後だからこそ、それはひと際まぶしかった。そして、「うれしい」や「かなしい」が等しく散りばめられた人生の、万華鏡のような美しさを空の上から俯瞰できた気がした。

思えば「メッセージ」の主人公は、すでに時間の流れから解放されていた。彼女にしてみれば、夫との蜜月の日々も、娘の誕生の喜びも、死も、別れも、すべてがいつでも手の届く所にあって、そこには始まりも終わりもない。それはもはや「思い出」と言い換えてもいい場所にある物語だ。だとしたら、あえて愛しい娘をその腕に抱かない人生を選ぶ理由があるだろうか。人生とは与えられた時間であり、同時に思い出そのものだ。もし自分の過去の記憶がきれいさっぱり消えてしまったらと考えるとゾッとする。それはそれまでの大切な時間、つまりは人生を丸ごと奪われたと同じことだからだ。主人公にとっては、娘を失う記憶を抱いて生きるより、娘との記憶そのものを失ってしまう方がずっと耐え難かったに違いない。

死んでしまった人を想って泣きじゃくっているのに、その人のすごくかっこ悪い写真に笑ってしまって、そのせいで愛しさが溢れてますます涙がこぼれて──。僕たちはそんな風にして人生の「かなしい」さえ慈しんで生きている。悲しいばかりではやりきれないし、できれば嬉しい事が多い方がいいけれど、全部がそうでなくても、案外どうにかやっていけるものなのだ。

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