本日の「読了」

小松美彦ほか編『<反延命>主義の時代 安楽死・透析中止・トリアージ』(現代書館 2021)

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小難しいタイトルだが、平易で読みやすい。
 取り上げられているのは、透析中止、ALS自殺ほう助、スイスで自殺ほう助(尊厳死・安楽死)を受けた日本のかた、相模原やまゆり園障がい者殺戮、終末期医療のコスパ問題、そして、covid-19禍医療現場のトリアージだ。
 covid-19禍のなか──皆等しく明日の命を保証されない状況──でこそ読んでおいたほうが、内容を拒否するにせよ受容するにせよ、自分の考え、立場の根拠に遺漏はないか見直し、より深い判断ができる一助になる(かもしれない)一冊。

一章の「スイスでの安楽死」、二章の「福生での透析中止」の再検証は、当時(といってもつい最近なんだが)見えていなかった部分を気づかせてくれるものがある。また、安楽死に関する本書の三章(安楽死・「無益な治療」論・臓器移植そして「家族に殺させる社会」:児玉真美)に示される「安楽死」法制化の海外の現状に驚愕(文明国の所作か!)し、ゾワゾワすらする。

読みながら自問自答も頭の体操になる。
 たとえば、covid-19治療の最後の砦「エクモ」は、医師や看護師、病床といった「医療資源を使い尽くす」機械である。入院できない人、医療にアクセスできない人があふれるなか、エクモやそれを運用するICUを増床することは正しいのだろうか? (ちなみにエクモ使用に関しては、二〇二〇年3月に日本集中医療学会などが提言を出しており、そのなかで「年齢65-75才以上は予後が悪く、一般的には適用外」としている点は、この本のレファレンスを探っていくなかで知った)
 では、自分が感染し重症化した際、治療資源・機会を若い世代に譲るのは意味を持つのか? という自問自答はいかがだろう。
 非生産的じじぃの私が陽性となり、入院前に「重症化したらエクモは若者に譲る」と明言したり、事前指示書を書いていたとしよう。
 でも、譲った若者が、やまゆり園事件の植松某だったら? それほど極端ではないまでも、感染症対策を何もせずにやりたいほうだいしていた輩だとしても、譲るのか? 社会的な見栄でかなりためらいがちに、しかも、小さな声で息も絶え絶えに「はい」と言うだろうが、内心、死んでも死にきれない、指示書を書いたことを激しく後悔する可能性もある。
 この設問はさらに広がる。
 事前指示書的なものは、巷間いわれる尊厳死と同様「意志を表明できる」(と信じている)人間の驕りにすぎない。
 譲る相手が重度障害や同年齢の認知症高齢者、生まれたばかりの赤子だと仮定したとき、私はやはり「はい」と答えるだろうか。自信がない。
 この尊厳死(安楽死)の問題は、闇に入り込む。
 尊厳死を「死ぬ権利だ」と宣言できる私(私は宣言しないが)にそれを認める時、宣言不能の人には尊厳死は認められないのかと。
 その闇の中には、自分の行った殺人は尊厳死の代行だと、半ば本気でそう考えていた節のある植松某が立っている。

本書の中の言葉を一つ選ぶとするなら、第五章(歪められた「生命維持治療」――医師としてACP・意思決定支援に思うこと)で編者の問いに対する医師・川島孝一郎氏の「死に形容詞をつけてはならない」という答え。
 死に、安楽死も尊厳死も平穏死もないということ。もちろん、無念の死もない。それらはすべて、死を体験していない部外者がつけたラベル。死に良いも悪いもない。もし、その考えを認めると、死の手前には、良い生き方悪い生き方が、そして始まりに、良い誕生や悪い誕生がある。しかもその良し悪しはの誰かの価値判断であり、それは否定や差別、選別につながる。
 死に形容詞をつけることは「生の全否定」の裏返しかもしれない。
 
[2021.09.07. ぶんろく] 
#延命 #反延命 #トリアージ #透析中止 #安楽死 #尊厳死  

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