見出し画像

経済・経営・商学部入試小論文対策問題「会社の社会的責任」

(1)問題


以下の文章は、岩井克人著 『会社はだれのものか』 (平凡社、2005)からの抜粋である。こ の文章を読んで、以下の2つの問いに答えなさい。
 
(1)著者がCSRをどのように捉えているかを、句読点を含めて400字以内でまとめなさい。 (2)著者は引用文の最後で「会社は社会のものなのです」と主張しているが、その根拠を明らかにし、それに対するあなたの考えをまとめなさい(句読点を含め400字以内)。
 
①  最近、「コーポレート・ガバナンス」という言葉以上に見たり聞いたりする言葉に、「CSR」があります。CORPORATE SOCIAL RESPONSIBILITYという英語の頭文字で、「会社の社会的責任」を意味する略語です。「会社統治」を意味する CORPORATE GOVERNANCEにかんしては、新聞や雑誌はわざわざカタカナで「コーポレート・ガバナンス」と書いていますが、この会社の社会的責任という言葉にかんしては、「コーポレート・ソシアル・レスポンシビリティ」というカタカナ英語は長すぎるのか、もとの英語の頭文字で代用しています。いずれの場合も、日本語訳ではなく、カタカナ英語や頭文字英語が使われるのは、日本経済の風土にとって異質な概念として、多くの人が抵抗感をいだいていることの反映かもしれません。それが、雪印乳業の集団中毒事件、日本ハムの牛肉偽装、東京電力の原発事故未報告、日産自動車のリコール隠し、さらに最近では日本航空の多発ミスやJR西日本の大規模事故など、次から次へと起こる日本の主要な会社の不祥事が直接の引き金になったのでしょう。いまでは「CSRバブル」などと椰楡されるほど、会社の社会的責任にかんするシンポジウムが大流行しています。

②  わたしは、いくらCSRバブルと椰楡されようとも、このようなシンポジウムがたくさん開かれることは、大変に意味のあることだと思っています。じじつ、わたし自身、いくつかのシンポジウムに出席して、発言したこともあります。ただ、同時に感じているのは、会社の社会的責任という概念がいったい何を意味するのかが曖味にされたまま、CSRという標語だけが一人歩きしているのではないかという危惧です。
(中略)

③  ところで、CSRのシンポジウムなどで、よく耳にするのは 「CSRはお得です」という説明です。会社が社会的責任を果たすことは、長期的には会社の利益につながるといって、CSRの普及をはかっているのです。たとえば、環境に配慮している会社や芸術を支援している 会社は、地球に優しい会社あるいは文化の香りの高い会社として、客のあいだで良いイメージをもたれるようになり、その会社の製品をよく買ってくれるようになるというのです。 ブランド戦略としてのCSRです。また、どのような会社でも、一時的な利益のために、あるいは一時的な損失を避けるために、違法行為をしたくなる誘惑に駆られることがある。しか し、もしその誘惑に負けて、違法行為をしてしまったとき、万一それが内部告発などで暴かれてしまうと、マスメディアで大々的に報道され、社会的信用をあっというまに失ってし まうことになる。それは結局は、会社の利益を悪化させてしまい、最悪の場合は、会社そのものが倒産に追い込まれてしまうかもしれない。たとえば、大量の食中毒者を出した後に、 衛生管理対策の不備を隠薇していたことが発覚し、さらに食肉の偽装までおこなっていた雪印グループは、結局、雪印というブランドを失ってしまった。三菱自動車や三菱ふそうの リコール隠しは、消費者の激しい非難を浴び、大幅な業績の悪化を引き起こしてしまった。これらの例と類似した会社事件は、それこそ山とある。したがって、法令遵守(コンプライアンス)は 、会社の長期的な利益を確保するために、有効な戦略だというわけです。

④  しかしながら、もしこれがCSRの意味であるとしたら、会社の社会的責任という言葉は全く無内容な言葉です。なぜならば、それは、会社に長期的な利益を最大化せよといってい るのにすぎません。
(中略)

⑤  このCSRという言葉が、たんなる長期的利益を最大化するための経営戦略という意味以上の意味を持つかどうか――きちんと論ずるためには、もう一度、その言葉がCORPORATE SOCIAL RESPONSIBILITYという英語の頭文字であることを思い出す必要があります。それは文字通り、「会社 (CORPORAT10N)」の社会的責任のことであって、「企業」の社会的責任のことではないのです。ここでも、法人企業としての会社とたんなる企業との区別が、本質的な意味を持つことになります。「人間は、自由と権利において、平等なものとして生まれ、生きる」というのは、フランスの人権宣言の第一条です。日本の民法第二条にも、「私権の享有は、出生に始まる」という言葉があります。市民社会の基本原理は何かと問われたら、すべてのヒトは生まれながらにヒトとしてあつかわれる権利を持っていることだという答えが、返ってくるはずです。ヒトは生まれおちた瞬間からモノとしてではなく、ヒトとしてあつかわれなければならないのです。これは、近代社会にとっての公理であり、そこに疑問を挟む余地はありません。近代社会のすべての制度は、この公理から導きだされることになります。

⑥  生まれながらのヒトのことを、法律では、「自然人」といいます。ところが、その近代社会は、この自然人以外にも、「法人」という奇妙なヒトを生み出してしまいました。本来はヒトではないのに、法律上はヒトとして扱われるモノのことです。自然人の場合は、ヒトとして生まれ落ちたことによって、社会によってヒトとしてあつかわれる権利を持っています。自然人は自然人であること自体が、その存在意義なのです。だが、法人の場合は、生まれながらのヒトではありません。それはたんなるモノです。そのたんなるモノが、たとえ法律の上だけであれ、社会によってヒトとしてあつかわれているのです。では、社会はなぜ法人をヒトとして承認しているのでしようか ?

⑦  それは、法人が社会にとってなんらかのプラスの価値を持っているからです。逆に、それが社会にとって何の価値も持たなかったり、またはマイナスの価値しか持たなかったりするならば、ヒトとしてあつかわれる必要はありません。たんなる石ころを、だれも法人にしようとは思いません。法人の場合、その存在意義は、それがなんらかの社会的な価値を持っていること にしかないのです。法人とは、本来的に社会的な存在であるのです。

⑧  問題は、その社会的価値の内容です。いうまでもなく、法人が生み出す社会的な価値の
もっとも 単純な例は、企業活動によって生み出される経済上の利益で す。くりかえしますが、利益とは収入から費用を引いたものです。費用とは、その企業活動が、市場を通して、モノやヒトといった資源を社会からどれだけ取り去ったかを示しています。収入とは、市場を通してモノやヒトといった資源を社会にどれだけ与えたかを示しています。したがって利益があがっていれば、その企業活動は社会に価値を付け加えたことになります。逆に、損失が出れば、社会から価値を奪ってしまったことになります。その意味で、会社が生み出す利益とは、法人企業としての会社が社会的な存在意義を持っていることの、もっとも明確な証拠であるわけです。利益を出している会社は、社会的に価値を持ち、生き続ける権利があります。損失を出している会社は、社会的に価値がなく、死んでもらうよりほかはないということなのです。じじつ、損失を出し続けた会社は、倒産してしまうことになります。これ に対して、自然人の場合は、まったく違います。自然人は、本人がヒトとして生きる意志を持っているかぎり、ヒトとして生きる権利を持っているはずです。
(中略)

⑨  そこで、法人とは、社会にとって価値を持つから、社会によってヒトとして認められているのであるという、法人制度の原点に立ってみましょう。そうすると、少なくとも原理的 には、法人企業としての会社の存在意義を、利益の最大化に限定する必要などないことが分かります。社会的な価値とは、社会にとっての価値です。それは、まさに社会が決めていく 価値であるのです。そして、ここに、真の意味でのCSRの出 発点を見いだすことができるはずです。すなわち、たんなる長期的利益最大化の方便には還元しえない社会的な責任とい う意味でのCSRです。

⑩  近代社会が成熟するにつれて、その中の個人個人は市民社会の一員としての意義を高めてきました。「市民社会」という概念については、さまざまな論争がありますが、ここでは、 とりあえず、資本主義経済にも国家システムにも還元できない人間と人間の関係のあり方、とでも規定しておきましょう。資本主義的経済が前提とするのは、自己利益の追求にはげむ 個人です。国家システムが前提とするのは、法律によって課された義務にしたがう個人です。この資本主義的経済にも国家システムにも還元されない市民社会というものがあるとす れば、それは、自己利益を超えた何かを追求し、法的な義務を超えた何かをみずからに課す個人の存在を前提とすることになります。まさにその「何か」が、社会的な責任なのです。 そして、そのような社会的な責任を共有している個人こそ、市民社会を構成する市民にほかならないのです。この社会的責任が具体的にどのような内容であるかは、時代によって、社会によって、変わっていきます。たとえば、同じ環境への配慮といっても、自分たちが現に生活している 地域の環境への配慮から、グローバルな環境への配慮、さらには未来世代の環境への配慮という風に、市民意識の成熟に 応じて、社会的責任の範囲も拡大していくことになるでしょう。いずれにせよ、ここで重要なことは、このような市民意識の成熟が、同じ社会のなかで法人として活動している会社 にたいして、それをヒトとして承認するための社会的な存在 理由として、たんなる利益の追求を超えた何か、法的な義務を超えた何か、を要求し始めているという 事実です。それが、現在、CSRにたいする、全世界的な関心の高まりの背景であるのです。 もちろん、このような動きについて、学者のパイプ・ド ームであるとか、功成り名を遂げた経営者の道楽であるとか、その実現性を疑う人間が大勢いることも確かです。いや、そのようなシニシズムのほうが、多数を占めているといったほうがよいでしょう。そして、実際、そのようなシニシズムに は、ちゃんとした根拠があります。もし会社の社会的責任が利益の最大化を放棄することであるならば、まじめにCSRにはげむ会社は、利益の最大化のみを考えている会社との競争に敗れ、この過酷なグローバル資本主義のなかで生き残って いくのは困難であるということです。CSRは、お得ではなく、大損なのです。だが、おもしろいことに、ここに、前節の冒頭で椰楡された「CSRバブル」の隠された意義があるのです。たしかに、CSRは一つの会社が単独で実践すると、その会社の競争のうえで不利にしてしまいます。しかしながら、一つの会社だけでは不可能なことでも、多数の会社が同時に行えば不可能ではありません。もし多くの会社が同時にCSRを実践していくようになれば、一つの会社の競争上の不利は軽くなっていくはずです。CSRバブルとは、株式や土地のバブルと異なって、バブルが続いていけばいくほどバブルではなくなり、まさにファンダメンタルとなってしまうという逆説をはらんだものなのです。それは、われわれ自然人においても、基本的人権という概念自体、はじめは少数の人間の間にのみ通用するバブルのようなものであったのが、いつの間にか多数の人間に共 通のファンダメンタル(基本)と なったのと同じです。人間は、歴史の中で、徐々にそのファンダメンタルズを増して、 少しでもまともな社会を実現しようと努めてきたのです。

⑪  「会社はだれのものか」というこの本の問いかけにたいする基本的な答えが、ここにあります。語呂合わせに聞こえてしまうかもしれませんが、会社は社会のものなのです。

(2)考え方

 
(2)   
 
①  前提
市場経済の原理に立ち戻って考える
市場経済の原理=市場メカニズム
●市場メカニズム[市場機構]
・需要と供給の関係で商品の価格が決まる仕組み
・需要と供給の関係で資源の効率的配分(資源の最適配分)が実現する仕組み
●資源の効率的配分
資源を最も効率的に利用して生産することで生産者は利潤を最大化するいっぽう,生産された財・サービスはそれを必要とする度合いに応じて消費者に行き渡っていくことで,社会全体の満足度[厚生水準]が最大化された状態。これをアダム・スミスは「(神の)見えざる手」にたとえる。

②  「社会」を定義する。
社会:人と人とが出会う互恵的な場。
「市場」は市場経済にとっての社会にあたる。
1)生産者と消費者とが出会う互恵的な場。
2)法人と法人とが出会う互恵的な場。

③  会社にとって社会とは何かについて考える
社会を構成するメンバー(プレイヤー):ステークホルダー(利害関係者)
<ステークホルダーの例>
クライアント(顧客・消費者)、従業員、株主、地域社会、行政機関、金融機関、各種団体(消費者団体、労働組合、経営者団体など)、政府、債権者

④  「会社は社会のものなのです」の根拠
会社は社会の利益を最大化=社会全体の満足度[厚生水準]を最大化するために存在する。
会社にとって、社会はステークホルダーという形で発現する。
会社は社会のクライアント(顧客)、従業員、株主、地域社会、行政機関、金融機関、消費者などのステークホルダーからの恩恵を受けることで存続することができる。


(3)解答例

(1)

CSR が会社のブランド戦略としての意味であるとしたらこれは長期的な利益の最大化にすぎないからCSR は全く無内容な言葉である。法人企業としての会社と単なる企業とを区別しなければならない。CSR は文字通り会社の社会的責任のことであって企業の社会的責任のことではない。人権宣言にあるように市民社会の基本原理はすべてのヒトは生まれながらにヒトとして扱われる権利を持っていることにある。社会が法人をヒトとして承認しているのは、法人の存在意義は社会にとってなんらかのプラスの価値を持っているからである。それは、法人が企業活動によって生み出される経済上の利益である。すると法人企業としての会社の存在意義を、利益の最大化に限定する必要などないことが分かる。社会的な価値とは社会にとっての価値であり、それは社会が決めていく価値である。そして、このことは単なる長期的利益最大化ではない社会的な責任という意味でのCSRが帰結される。
(400字)

(2)

社会は人と人とが出会う互恵的な場であり、市場経済においては生産された財・サービスが市場を通して消費者に行き渡っていくことで,社会全体の厚生水準を最大化することに会社の経済活動の目的が置かれている。付言すれば、会社にとっての社会は消費者だけでなく従業員、株主、地域社会、行政機関、金融機関などから構成されている。こうした意味で「会社は社会のもの」という結論が導かれる。市場は自由競争の原理で売買が行われるが、社会の互恵性を維持するためには、会社は生産する財の安全性を担保し品質を保証する責任を持つ。これを疎かにして一方的に会社の利益のみを最大化することは社会的に許されなさい。このことから、公害などにより、社会の住民に大きな損害が生じた場合、公害被害者に対して公害を発生させた会社が賠償責任を果たすことは、「会社は社会のもの」という前提から当然の帰結として導かれるものである。(387字)

 👇オンライン個別授業(1回60分)【添削指導付き】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?