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夫は「成長教」に入信している。

辞める辞める詐欺を繰り返す夫

ここ1ヶ月、「仕事に疲れたので辞めて数ヶ月のんびりしたい」と夫に言われ続けている。
私は「いいよー休めば」という話をし続けている。

私も仕事をしているので、夫が1年ぐらい無職でもなんとかなる。
以前から夫が専業主夫になったらいいのにとも思っていた。
家事が得意だし、子育ても好き。
私とは逆の特性を持っている。私は仕事が好きで家事が苦手だ。
娘は大好きだけど、一日中ぐずってしまっている時は発狂しそうになる。

しかし、夫は毎日毎日
「辞める勇気がない」
「ベンチャーに転職したい」「大学院に行きたい」
「やっぱりGAFA(Google、Amazon.com、Facebook、Apple Inc.) に行きたい」などと
軸の定まらない問いを投げかけてくる。

壁打ちのように対話を繰り返してはいるが
一向にまとまらない。
いくら辞めてもいいと言ってもやめようとしないので、続けてみては?とも言っている。

夫は成長教に入っていた。

しかし、彼の恐れは止まらず相変わらず仕事を休もうともやめようとしない。
夫は何を恐れているのだろうということを今日一日考えてみた。

彼は「成長教」
という宗教に入っているのではないかという仮説を立ててみた。
その宗教で恐れるものは何なのか。

大雑把にいうと  「世間の目」と 「進みすぎる時間」と「親世代からの批判」の3つである。

■世間の目
私達の家には赤ちゃんがいる。生まれて3ヶ月。
夫は周囲に時短のことを切り出していたのだが、周りの反応は
「お父さんになったんだから、今までよりもっと働かないとね!」というのが半分
「自分の責任において何してもいいんじゃない?」というのが半分。
「お父さんになったんだから、お休み取ったり、早めに帰らなきゃね」
というのはなかった。

■進みすぎる時間
夫は大学に現役で入り、第一志望の企業に入社した。彼の入った会社の裏キーフレーズは業務が厳しくても、1年で3年分の成長ができる、だった。激務だけどお給料も成果に応じて上がりやすい。

私は思うのだけど、彼は10年働いて10年で30年分働いてきたぐらいに
消耗してしまったのではないだろうか。
30年分、成長した分、50歳になったように疲れてしまったのではないだろうか。

そして1年やそこら休むことで3年分は浪費してしまったように感じてしまうのではないだろうか。

■親世代目線からの恐怖
両親世代の期待は、偏差値の高い大学に入って有名企業や公務員になることが
ゴールだった。夫も私もそのような環境で育ってきた。
次にお父さんになったら、家族にために身を粉にして働くのが親世代の価値観である。価値観にそむくことも、応え続けることもしんどいのかもしれない。


そもそも世の中で自分の目標を達成できる人は一握り

SNSをみていると、「やりたいことが見つけられない」「やりたいことがわからない」
というメッセージをあちらこちらで見かける。
私はそれよりも「やりたいことがこれではない」「もしかして向いてないかも」
とわかった後の方が重要だと思っている。

私達にあるのは、成功するために行動する自由だけだ。
実際に成功できるかどうかは運にだいぶ左右される。

会社で働くというのは、ゼッケンをつけてマラソンに参加するのと同じだ。

一度レースに参加すると降りられない長い長い道のり。

会社を変えるというのはユニフォームを変えて、ゼッケンを付け替えていつもと違うコースをいきなり走るようなもので、なかなかにパワーがいる。
その人の体型が変わるような大きな変化がない限り、
自らゼッケンを剥がそうなんて思わない。
体はボロボロで、もはやゼッケンを剥がさざる終えない、という状況になって
初めて人はゼッケンを外そうとする。

夫にはできればそうなる前にレースを降りる選択をしてもらいたい。

成長教から離脱するには

思えば私も成長教に入っており、今もまだ抜け出し切れていない。

でも自分に対してはまだ言えないけど、家族に対しては成長教から解脱して良いと胸をはって言える。

その考えが変わったきっかけは、「今ここに人が生きている」ということが奇跡の連続だということが出産を経てわかったことだ。

妊娠検査薬が陽性になる。それから何週かして、胎嚢を確認して、それから1週間で、心拍が確認できて。どれだけチェックポイントをクリアしても、実際に生まれてくるまでは不安しかなかった。

生まれた今でも赤ちゃんの成長に関しては、不安ばかりで、このフニャフニャしている生きものが日々生きていることに感謝するばかりだ。

それまでは、生きてるだけで素晴らしいなんて、あるわけないと思っていたけど(あまりに生きづらい毎日が続いていて)
自分が生きている、死んでいないということが、本当は奇跡の連続によって起きていることを、深く深く実感した。

そこにある愛を信じること

たくさんの人がいてたくさんの考え方がある。
私が本気で関われるのは両手に届く範囲であるとしたら、抱きしめられる範囲の人たちには、
「成長なんかしなくたっていい」「ただ生きているだけでも毎日が奇跡」
「私はあなたたちを愛しているよ」
ということを繰り返し繰り返し伝えたい。

根拠なんかなくても湧いてくる気持ちを愛と名付けてこれを宗教にしたいと思っている。夫が近いうちに入信してくれますように。

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