封建時代と現代の「五公五民」

 税金や社会保険料などの高負担から、いつからか「五公五民」という言葉が使われるようになりました。これは当然、日本の歴史の授業で扱うような、江戸時代の「四公六民」からくるものでしょうが、個人的にはその時代と同列に語るのは全くのナンセンスだと思います。
 当然ですが、封建制時代の国民への負担と、現代の国家としての国民への負担は全く質が異なるからです。その質の違いというのは、負担の使途の違いです。封建制の時代では、召し上げられた年貢は武士や貴族の食い扶持になっていました。国民への多くのリターンがあったとは考えにくいですね。現代ではどうでしょう。確かに公務員や国会議員の給料に当てられる分はありますが、ほとんどは公共事業や社会保障といった形で国民に還元されていますよね。リターンの部分を見ずに、負担部分だけで語って封建制時代よりひどいなどと言うのは、はっきり言って安っぽい煽動に乗せられていると思ってしまいます。
 現代の国家は、低負担だけど低福祉、高負担だけど高福祉という国家のあり方があります。もちろん、すべての国が2つに類型できるわけではないでしょう。2つの間で、自国にとってちょうどいいバランスをどの国も探しているのだと思います。そして当たり前のことですが、低負担で高福祉などは実現できません。たしかに低負担高福祉が実現したらものすごくハッピーですが、残念ながら無い袖は振れません。夢物語です。では日本の目指すべき姿はどこなのでしょうか。
 少子高齢化対策の必要性は誰もが認めるところでしょう。では、その実現のための具体的な施策はどうするのが良いのでしょうか。またその財源はどうするべきなのでしょうか。
 先日、自民党は、社会保険料に積み増す形で財源を確保し、子育て支援に当てることを決めました。これは、「高負担高福祉」への道です。野党各党はこれに対して批判的な論を展開していますが、「子育て支援」そのものを批判する人は私が見た限りではいません。皆、少なくとも今よりは子育てに対する福祉が必要だとは思っているのです。高福祉を目指そうとするのに、高負担を非難するのであれば、それなりのロジックが必要です。
例えば維新の会の音喜多政調会長は、社会保障の歳出面での改革で一定の財源を捻出できるとしていますし、

国民民主党の玉木代表は国債によって賄うべきだとしています。

音喜多氏の主張は、いわば福祉を少し下げることで負担を上げないというバランス調整です。玉木氏の案は、いわば負担の先送りになってしまう案です。
 正直、私もどれがベストな選択なのかはわかりませんし、今の税・保険料負担が重いと感じないと言えばウソになります。ですが、時として社会全体の利益と個人の利益は一致しません。例えば、不景気になった時、個人としては先行きが分からないなら貯蓄を増やすのが合理的になりますが、社会のみんながそうして貯金をしだすと、消費が減ってさらに景気が後退しますよね。
社会にとってなにが良いのかということを考える時には、個人の利益という範疇から抜け出した思考も必要になるでしょう。

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