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【苦虫を噛み潰したような】

「随分と久しぶりですね」

喫茶店で色が濃くて苦いばかりのコーヒーを舐めるようにしながら時間を潰していたわたしの向かいの席に男が座った。目ぶかにかぶったキューバ帽が、年季の入った様子が古ぼけたデザインのカップに映り込む。

「覚えていらっしゃいませんか?」

男が手をゆるゆると揉みながら聞いてくる。帽子のせいで表情が全く読み取れない。日焼けをした手、太く短い指。その岩のような体躯。思ったより若いのだろうか、その手にはまだ深いシワは見当たらない。

「失礼ですが、以前どこかで?」

「そうですよね。そうだろうと思っていました。むしろ覚えている方が不思議なのかもしれない。カラオケ店ですよ、わたしがあなたに出会ったのは」

カラオケ。もう何年も行っていない。それにカラオケで新しく知り合った人などおそらくはいない。なのに今目の前にいるこの男はわたしとカラオケ店で出会ったと言う。

思い出してみる。あれは3年くらい前だろうか、お盆の頃に帰郷した際に幼馴染みの菜穂と食事をした後に駅前のカラオケ店に立ち寄り懐かしい歌を熱唱したのを覚えている。タコの唐揚げやクリームソーダなんかを頼んで大いに盛り上がった、そして少し置いて彼女がわたしに告げた。ごめんなさい、謝らなきゃいけないことがある、そう話を切り出してきた。

高校3年の頃に初めての彼氏ができた。わたしは東京の大学へ行くことにしていた。そして卒業を前に別れてしまったのだがその理由が実は菜穂と付き合い始めたことであることをその時初めて知った。詳しい馴れ初めはわからない。その時のわたしは傷は癒えていたとは言えその事実はあまりに突然にわたしの人生の一部を抉っていったのだ。幼稚園の頃からの1番の幼馴染みとの大切なものを。

「思い出していただけましたか?」

男の声で我に戻る。

「いえ、思い出せません。カラオケは何年も前に幼馴染みと行ったっきりです」

男が姿勢を整えた。

「苦虫ですよ。その日あなたが苦虫を噛み潰したような顔をしそうになった時、あなたは思い直してそんな顔をするのをやめた。その時に噛み潰されずに救われた苦虫ですよ」

男がキューバ帽をとる。そこには一人の大きくなった苦虫がいた。

「あの日あなたが毅然とした態度で彼女を許した。いや、許したかどうかはわかりません。ですが心の乱れを必死に立て直して最後まで彼女を責めることはなかった。そんなあの日のあなたが救ってくれた命です、このわたしは」

苦虫が立ち上がり深々と頭を下げた。触覚が稲穂のように垂れる。

「ありがとうございました。このように立派に育つことができました。どうしてもそのお礼がしたかった。突然現れた無礼をどうぞお許しください」

苦虫は去り際に名刺をくれた。SNSで大きく名を上げたらしくいろんな分野で活躍しているようだ。そのどれをのぞいても穏やかさでわたしの心が満たされていった。

本日も【スナック・クリオネ】にお越しいただいき、ありがとうございます。 席料、乾き物、氷、水道水、全て有料でございます(うふふッ) またのご来店、お待ちしております。