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【ギリヤーク尼ヶ崎という基準】



何かを出し惜しむ。そんなことがある。そのことについていろいろ考える。

今日という日を迎える。命を食べ、それを排泄しわたしは生きる。おいしく水を飲み、酸素を吸う。そして二酸化炭素を吐く。

お金をもらう。時間や労力を提供してそれがお金を作り、そのお金の中からわたしはお金をもらう。そのお金で屋根の下で眠り、雨風を凌ぎ、寒い日には暖房をいれ暑い日にはクーラーをかける。

歌を歌う。仕事をしながら歌を歌う。時には踊っていたりもする。何かが空の高いところまで昇っていってそれがどこかに届くような感覚がある。時間や労力以外の部分で捧げた何かがわたしの知らない誰かの元に届く。きっとそれを感じた時にそれはおこる。

飛行機に乗る。遠くの国へ向かう時に職業を書く欄がある。わたしはそこにエンターテイナーと書く。この欄を埋めることの難しい時期があった。自分が何者かをうまく表現することができなかった。厳密にいえばその時の仕事に関したものを書けばいいのだけれど、そのことに対して違和感を強く感じていた。

例えば『〇〇株式会社で働いているクリオネ』という名刺がある。これをいつしか持たないようになった。もちろん名刺の役割の薄くなった時代のこともあるけれど、会社から与えられた名刺への違和感、言葉を変えるならば少し偏屈な思考回路の生んだ気まぐれかもしれない。それが強くなっていった時期にわたしは名刺を持つことをやめた。

自分が何者なのか。何をしている人なのか。いろんな仕事についた中で知り合った親しい人たちに聞いてみた。どの人もエンターテイナーであると教えてくれた。

わたしは人を楽しませたり心から笑ってもらえたらどんなにステキだろうって思っていることが多い。これは両親から受け継いだもの。そこに無限にループし続けるエナジーの巡る世界をみている。永遠に増幅するエナジーの輪。歓喜と笑顔。

では自分がエンターテイナーだとしたらわたしにはどんな芸があるのだろう。そこにはまだなんの答えも見出せない。言い訳をするのなら見出すような場所にすら立てていない。それでも自分の中にあるものを信じている気持ちもあるし、いつかどこかに辿り着くのかもしれないとも思っている。


ある日、何年も前の話だけど、まだテレビを持っていた頃にある番組を観た。結果を言ってしまうのならばその番組を観てわたしは身体の中に宿ったものを感じた。その番組はギリヤーク尼ヶ崎という人物のドキュメンタリー番組だった。

その人自体は知っていたけれど詳しく観るのははじめて。ギリヤーク尼ヶ崎さんは大道芸人で、芸を披露してその時のおひねりで主に生計を立てている。30代になってから芸の道を歩みはじめて38歳の時に初公演。

何度も言うけれど身体の中に宿る何かを感じた。ギリヤーク尼ヶ崎さんの芸は祈りであり捧げ物のようであった。心が強く震えた。それの舞踊が何であるかは未だに理解などできないけれど(その何かを特定しようとすること自体が野暮であるように感じる)。とにかくギリヤーク尼ヶ崎さんは何十年も踊り続けている。そしてそうすることでいろんな意味で生きている。

どうしようもなく心をうたれたシーンがあった。ギリヤーク尼ヶ崎さんが入れ歯を取り自分がおばあちゃんになったと感じた時のことを語るシーン。よくわからないことだらけの存在がわたしの心に根をはってそれが森になった。

もし興味があればぜひギリヤーク尼ヶ崎さんのドキュメンタリーを観てほしいのだけれど、今回の話は少し違う話です。

このドキュメンタリーを観た後に大きな価値基準ができた。わたしはギリヤーク尼ヶ崎さんのように生きることができるだろうか。もちろん違う人生なので同じ人生を歩むことを意味しているわけではない。誰かの心に光や炎などの力を宿すことのできる力を持って生きることができるかどうか。

今わたしは細々とだけれどnoteで文章や絵を投稿している。時々サポートを頂けることもある。その度に大道芸人としておひねりをもらい生計を立ててきたギリヤーク尼ヶ崎さんを思い出す。嬉しい気持ちと同時に自分に問いかける。何かを捧げることができているだろうか。言葉でも笑いでも、一言でも誰かの心に届く言葉を書いただろうか。決して堅苦しく考える訳ではないけれど、そしてそれだけが全てではないけれど、そんなことを考える。

言葉を残す。投稿してその時からそれはわたしの手の届かないところで誰かに委ねられ解釈されて消化される。そのことを理解した上でどう解釈されてほしいということは思わなくなったし、読んでくれた人が思う姿にその作品があることは豊かなことでもあると思える。ここで忘れてはいけないことはその言葉たちは読んでくれた人の身体を通るということ。その部分は忘れてはいけない。


noteでもわたしに宿るものを感じることがある。本を読んだり音楽を聞いたりしてそれを感じることがあるのと同じようにそれは起こる。そこにはその人の心があって、気持ちがあって、その上で生まれてきた言葉であり作品がある。それがわたしの中を通っていって、その通り道にいろんな景色を描いていく。それはわたしにとっての心地よさであったり必要な栄養素のようなものであったりするのだろう。ひょっとしたらそれは誰かがひっそりとわたしに捧げてくれていたものなのかもしれない。そんなことを考える。そしてまた何かを書く。宿してくれたものと向き合うからだ。













本日も【スナック・クリオネ】にお越しいただいき、ありがとうございます。 席料、乾き物、氷、水道水、全て有料でございます(うふふッ) またのご来店、お待ちしております。