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私が箱根駅伝に執念を燃やすようになった原点 / 原晋

新年あけましておめでとうございます。
2024年1月2日、3日、記念すべき箱根駅伝第100回大会で、原晋監督率いる青学大駅伝チームは大会新記録で完全優勝を果たしました。
応援していただいた方、本当にありがとうございました!
そこで青学大の優勝を記念して、駒澤大が圧倒的有利とされたなか、なぜ、原晋監督は箱根で勝利を収めることができたのか。その秘密に迫る、いわば闘いの原点ともいうべき”想い”を明かした、原監督著『最前線からの箱根駅伝論』の第3章を特別公開いたします。
勝利の余韻に浸りながら、ぜひ、ご味読ください。


「あいつは何しに世羅に行ったんや?」


ここまで駅伝、なかでも箱根駅伝に対する想い、そして実際の強化策について話をしてきました。では、なぜ私がそこまで箱根をはじめとする駅伝にこだわるのか。その原点について、まずは高校時代の話からしていきましょう。

私の母校は広島の県立世羅せら高校です。全国高校男子駅伝で全国最多11度の優勝を誇る名門で、「駅伝の世羅」と枕詞まくらことばがつくほどの伝統校です。
私はここに、いわゆるスポーツ留学をしました。同じ広島県三原市の親元を離れて世羅町に移り、1年生のときから寮生活。最初はまったく結果も出ず、トレーニングも厳しく、寮生活もつらいので、帰りたいとばかり考えていました。入ったばかりの頃の私は、弱音ばかり吐いていたのです。

でもある日、こう気づくのです。
「自分で決断してここに来たんだから、諦めちゃダメだと。どれだけ寮生活が厳しくても、弱音を吐くのはやめよう」

そういうふうに考え方を改めると、不思議と練習がつらくなくなったんです。それで、今度は絶対に負けないと思って、2年生になりました。当時、ひとつ上の先輩の代が非常に強く、1500m、5000mの高校記録保持者であった2名をはじめ、当時の高校生ランナーの優秀の証しでもある5000m 14分台の選手が、のべ7名ほどもいたのです。

レギュラーの枠は限られていますから、当然、5000mが15分台の選手だった私はレギュラーにはなれません。そこでまた悩むのです。「オレは何をしにここへ来たんだろうか」と。
親元を離れたうえに、普通の進学とは違います。スポーツ留学をしたのに、まったく鳴かず飛ばずで、周りから「あいつは何しに世羅に行ったんや?」と思われるのがイヤでした。そこで、現状を変えるにはやはり練習するしかないと思い、そこからは輪をかけて日々のトレーニングを頑張ったのです。

いま振り返っても、高2の頃が一番練習したと思えるくらい、それくらい本気で陸上に取り組みました。
唯一の休みがお正月でしたが、実家に帰ってもひとりで練習をしたほどです。いまでは笑い話ですが、お年玉をもらってくると言って、10km離れた親戚の家まで走って行き、次はそこから5km離れた親戚の家まで、また走っていく。まさに「お年玉駅伝」のようなことをして、気づけば30kmくらい走っていました。当時からそのような楽しむための仕掛けを考えるのが好きで、結果、私はそうして強くなっていったのです。

私の根っこにある高3のキャプテン経験


私が在学中も、世羅高は全国トップクラスの駅伝強豪校でした。スター選手がいたひとつ上の代ですが、じつは最後の大会を勝てませんでした。突出した「個」はいたものの、チームとしての一体感がなく、仲も悪かったし、後輩イジメもあって、まったく一枚岩にならなかったのです。
練習も軍隊式で、先輩の命令は絶対でした。反省会では正座をさせられましたが、選考レースの前にあんなことをしたら選手は走れません。

あの時代の運動部は、どこの学校もそうだったかもしれませんが、1年生は風呂に入る時間も遅く、鳴らない電話の前でずっと電話当番をしなければいけませんでした。先輩がイビキを立てて寝ている横で、下級生は座っていないといけなかったのです。
そんなことを下級生にさせて、チームの雰囲気がよくなるはずもありません。結果、NHKが密着取材するなど、絶対に優勝すると言われながら、先輩たちは全国3位に終わりました。あのチームで3位は負けに等しかったんです。

そして、いよいよ次は私たちの代です。周囲の期待値はうんと下がりました。強い選手が抜けて、能力的にも低く、実績もなければ自信もない。「お前らは駄馬だ、駄馬だ」と言われて、トレーニングが前年の5割増しになりました。
それでもやはり勝ちたいですから、厳しいトレーニングを必死になって耐えました。私は3年生のとき、キャプテンを務めましたが、先輩たちの姿を見ていましたから、それを反面教師にして「和」を大切にしたチームづくりをしたんです。もう、すべてのやり方を変えました。

あとでゴソゴソされるとイヤだから、1年生から先に寝なさい、と。風呂も一緒に入ろうと。反省会だってしごきのためにやるのではなく、意識を高めるための集まりにした。そうしたところ、チームはたった1年で大きく変わっていったのです。やはり、駅伝での勝利のカギとなるのは、チームの一体感と日々の練習です。トレーニングをしっかりやって、寮生活を整えなければ勝てないということですね。そういう原理原則を、高校時代に学んだように思います。

私たちは3年生の全国高校駅伝で準優勝に終わりましたが、優勝を逃した悔しさよりも、先輩たちの順位をひとつ上回った、その喜びでいっぱいでした。振り返れば、この体験が自身の根っこにあると思っています。

小学1年生で悟った「自由」への渇望


あま邪鬼じゃくで、押しつけられることが嫌い。
私の性格は、小学生の頃からそうでした。自分で仲間を集め、「ヒマ人同好会」と称して、うす暗い川べりの土管のなかでいろんな遊びを考えたものです。そのルールも自分たちで考えて、こんなゲームをやるぞって。その頃からなぜか、上から言われたことを「ハイ、ハイ」って聞くのが好きではなかったんですね。

世羅高校のキャプテンとして準優勝の報告をしたときのワンシーン。 「和」のチームづくりで先輩の成績を上回った喜びでいっぱいでした。

私は小学校に入学した年に、一度死にかけたことがあります。漁港の防波堤から落ちて、手や足を20針近く縫う大ケガをしたのです。そこから1カ月間入院して、松葉杖生活でした。小学1年生といえば遊びたい盛り。それなのに、動きたいのに動けない。強制的に押さえつけられて、自分が小さくなったように感じました。そこでおそらく、自由の大切さというのを本能で感じ取ったのだと思います。
抑圧された日々を過ごして自我に目覚めた、とでも言うのでしょうか。さらに言えば、小学生の頃はいわゆる「カギっ子」でしたから、何をするにも自分たちで工夫しないと楽しくなかったんです。

私は3人兄弟の末っ子。父親は教員で、母親もよく働く人だったので、家にいるのは兄弟だけということが多かった。別に貧しかったわけではありませんが、お腹が空けば近所のおばさんのところへ行って、何かを食べさせてもらったりしていました。あるいは、おこづかいをもらって、そのお金でどれだけ楽しいことができるか考えたり。そうした経験からも、あまり子どもを過保護に育てないほうが、かえって子どもの自由な発想を伸ばすような気がします。

小学校高学年のとき、地元のマラソン大会に出場。 私の陸上、原初体験のひとつ。

入社5年目で実業団チームをクビに


じつは私は、学生時代に箱根駅伝を見たことがほとんどありませんでした。
高校時代にはまだ、日本テレビによる生中継が始まっていませんでしたし、大学も愛知県にある中京大学に進んだので、箱根駅伝を観戦する機会もなかったのです。

大学時代の私は可もなく不可もなくの選手で、3年生のときの日本インカレで5000m3位に入ったのが最高の成績でした。
卒業したら、父親のように教員になろうと考えていました。ところが、ちょうどそのとき、地元の企業である中国電力から、「創設する陸上部の1期生として入部していただけないか」と、母校の世羅高で教育実習をしているときに勧誘を受けたのです。いわばなりゆきで競技を続けることになったんですね。

こうして陸上部の1期生として、1989年に中国電力に入社しました。ただ、どこか覚悟が曖昧だったのでしょうか。一番の悔いは、社会人1年目にケガをしたことです。

高校の先生に言われるがまま中京大学に進み、 3年生のときに出場した全日本インカレの5000m。左端が私です。

1年目の夏合宿を終えて、さあこれからというときに、自分の不注意で足を捻挫してしまいました。対処法を誤って、捻挫ぐらいと軽く考え、ケアをせずに放置していたら、取り返しがつかないくらいに悪化してしまったのです。それが後遺症となって、イメージ通りに走れなくなってしまいました。

それで、自分が強いのか弱いのかもわからないまま、1995年、入社5年目で実業団チームを引退することになったのです。平たく言ってしまえばクビですね。その頃のことを振り返ると、いまでも悔しさがこみ上げてきます。当時の指導は昭和のスタイルで、「指導者の言うことが絶対」という時代でしたから、あらゆる監視下に選手を置いて、下からの意見には耳を貸してもらえない状況でした。

私もケガのことをちゃんと打ち明ければよかったのですが、そのときは性格も無口でしたからね。監督やチームメイトから信頼されず、「ダメな人間だ」というレッテルを貼られてしまった。
このときの悔しさが、私を社業へと駆り立てたのです。

学生時代、前述の全日本インカレ5000mの3位に入ったのが最高成績。 可もなく不可もなくの選手でした。

ところが、運動部上がりという経歴が今度は出世の妨げになりました。私は体育学部出身ですが、周りは有名大卒のエリートばかり。あり得ないような人事を経験し、同期とは差をつけられ、それでも必死になって営業のノウハウを覚えました。基本、私は負けず嫌いですから、仕事ができない人間だとは思われたくなかったんです。

まさに、人生のどん底からのリスタート
営業マンとなって4年目、社内公募に手を挙げて、「エコアイス」という省エネ空調システムを提案する部署への配属を願い出ました。やがてその商品を社内で一番多く売り上げるようになると、「伝説の営業マン」というように、周囲の見方も変わっていったのです。

10年間のサラリーマン時代で、最後は地方の営業所から本社にまで返り咲いたのですから、自分でもよくやったと思います。ただ、それでもどこか気持ちのなかに、「陸上でやり残した」という思いが消えずに残っていたのです。

中国電力陸上部の面々と、入社2年目のとき。 この当時、すでに1年目のケガの影響が出ていました。

陸上への「未練」と3年生との「絆」


ひと言で言えば、陸上への未練です。
それがなかったら、知人からの誘いにも応じてはいなかったでしょう。

「青山学院大学が陸上部を強化する方針で、新たな監督のなり手を探している」35歳のときにこの話を聞いて、未練を断とうと決心したのです。3年間の嘱託契約で、将来の保証もない。広島の家のローンも残っていましたが、気持ちが抑えきれませんでした。猛反対する妻の美穂と両親を説得して、2004年、東京都町田市にある青学大の陸上部寮に夫婦ふたりで移り住みました。

当時、すでに陸上の現場から10年近く離れていましたが、自分ならまったく違うやり方で、青学大の駅伝を強くできるという自信があったのです。私が知る限り、陸上の現場は私が現役だった頃と何も変わっていませんでした。指導スタイルも古いまま、生活習慣も代わり映えしない。旧態依然としたフィールドに危機感をおぼえたくらいです。ですから、逆に生活スタイルや意識という根っこの部分を変えれば、大学陸上界に革命を起こせると考えたんですね。

本当は教師になるつもりだったのに、 誘われるがまま中国電力に入社した当時の様子。 若い頃は、他人の意見に流されがちだったかもしれません。

ただ、実際に現場を預かってみると、想像以上に選手の意識が低かった。茶髪にピアスの部員もいて、生活も荒れていました。私も改革を試みましたが、1年目、2年目と結果が出ません。そして、焦った3年目に、私は大失敗をしたのです。
とにかく勝ちたいという一心で、記録だけを重視して選手をスカウトしました。その結果、チームはまとまりを欠き、箱根駅伝の予選会で16位と惨敗を喫したのです。

当然、チーム内はゴタゴタとなり、私もクビ寸前まで追い詰められましたそのとき、「このまま原監督のもとでやらせてほしい」と、大学関係者に訴えてくれたのが、当時の3年生だったのです。
私は監督を引き受けた際、主将は学生たちに決めさせると断言しました。自ら主将を引き受けるということは、そこに覚悟があるからです。この「覚悟」という言葉がひとつのテーマで、そこをいまでもすごく重要視しています。

ですが、過去20年間で唯一、この年だけは私がキャプテンを指名しました。「監督とともに戦いたい」と言ってくれた学生に、一緒にチームを立て直してほしいと頭を下げたのです。このままではチームが崩壊すると思ったし、このときはまだ「原イズム」がチームに浸透していませんでしたから。やはり、チームには監督と選手の信頼感が欠かせません。選手が私のやり方を信じてくれたときに初めて、チームに一体感が生まれるのです。

私が監督に就任して5年目の2009年に、青学大は33年振りの箱根駅伝復活を果たします。その躍進の陰に、苦しかった時代を支えてくれた、先の3年生たちの奮闘がありました。彼らとの絆が、チーム再建のカギとなったのです。

「10時間43分42秒」という金字塔


振り返ってみると、33年振りに箱根駅伝に復活してからは、自分でも驚くくらい、順調に成績を伸ばして来られたと思っています。
2010年には復帰2年目にして箱根駅伝8位、シード権を早くも獲得します。そして、指導を始めて9年目の2012年には出雲駅伝に勝って、3大駅伝で初優勝を飾ります。
学生たちが苦痛に顔をゆがめるのではなく、笑顔でたすきをつなぐ姿に、全国の高校生が何かを感じとったのでしょう。そのあたりから、スカウトでも高校時代から実績のある子たちが入ってきてくれるようになりました。

そして、2015年の第91回箱根駅伝で歴史が動きます。2位でたすきを受け取った5区の神野大地が区間新記録の走りでトップを奪取。2位の明治大学に4分59秒もの大差をつけて、往路優勝を決めたのです。もちろん、復路も青学大の独壇場。大会新記録で初の総合優勝を勝ち取りました
常勝軍団の歴史は、あの神野の快走から始まったといっても過言ではないでしょう。

では、いままでのベストゲームは何か。
これもよく聞かれる質問ですが、何を基準に考えるかで評価は分かれるので、ひとつに絞るのは容易ではありません。
ですが、パッと頭に浮かぶのは、2022年の第98回箱根駅伝の優勝でしょうか。このときはエース不在と言われ、大会前の下馬評では連覇を狙う駒澤大学が優勢でした。私たちは前年、7年振りに箱根駅伝で区間賞なし。片や駒澤大は箱根駅伝を勝ち、その年の前哨戦である全日本大学駅伝でも、私たちに8秒先着して優勝を飾っていました。

長距離という競技は、前述したようにスタートラインに立たせるまでが監督の仕事です。
私はその年、自信を持って10人の選手を送り出しました。往路には1年生ルーキーを2名起用したのですが、当然「原メソッド」に当てはめて勝てると見込んだ選手たちです。

とくに、5区に起用した若林宏樹わかばやしひろきは全国的には無名の1年生。箱根駅伝の最難関である区間にルーキーを当てたことで、驚かれたファンも多かったと思います。
いざレースが始まると、監督にできることは運営管理車からの声がけくらいです。私の場合は、誰に教わったわけでもありませんが、ある程度のパターンがあります。
選手が走り出せば、まずは落ち着かせるためにゆっくりとしたトーンで話しかける。そして後半になるにつれ、ハッピーホルモンを出させるために、こちらもテンションを上げて、リズムよく、短い言葉を連呼します。

困るのは予想外のアクシデントが起きたときで、やはり不安な気持ちで送り出したときほどマイナスに振れることが多い。もし選手が失速してしまったら、レース状況を頭から一度消し去って、個人を輝かせる方向に話を持っていきます。自分との闘いであることを強調して、選手がプライドを取り戻せるよう声をかけるのです。
その点、この年の声がけは非常に楽でした。選手が理想の走りをしているときは、こちらもたいしてかける言葉がないのです。

1年生で抜擢した3区の太田蒼生おおたあおいが区間2位の快走、5区の若林も区間3位の力走で、周囲の不安視する声を一蹴してくれました。
まさに圧巻だったのが復路の9区と10区で、ともに3年生の中村唯翔なかむらゆいと中倉啓敦なかくらひろのぶが区間新記録の驚くような快走を見せてくれました。気づいたときには、2位の順天堂大に10分51秒もの大差をつけて独走状態に。運営管理車に乗り、彼らの背中を見ながら、私まで惚れ惚れと感心したものです。

結果的に、この年は大会新記録である「10時間43分42秒」という金字塔を打ち立てました。ただし、このベストゲームにしても、何が前年と違ったのか、なぜこれほどの記録が出せたのか、理由についてはわからないというのが正直なところです。ただ、勝つべくして勝った。いまもそれしか言葉が出てきません。


『最前線からの箱根駅伝論』
2023年11月1日刊行 / ビジネス社刊

原晋(はら・すすむ)
1967年、広島県三原市生まれ。青山学院大学陸上競技部長距離ブロック監督、同地球社会共生学部教授、一般社団法人アスリートキャリアセンター会長。広島県立世羅高校で全国高校駅伝準優勝。中京大学卒業後、中国電力陸上競技部1期生として入部するも、故障に悩み5年で引退。同社でサラリーマンとして再スタートし、新商品を全社で最も売り上げ、「伝説の営業マン」と呼ばれる。2004年から現職に就任。09年、33年ぶりに箱根駅伝出場を果たし、15年に同校を箱根駅伝初優勝に導くと、17年、大学駅伝3冠を達成。翌18年に箱根駅伝4連覇、20年には大会新記録で王座奪還し、22年にはさらに大会記録を更新し箱根駅伝6度目の総合優勝を果たす。監督業のかたわら、地方活性化、部活指導、さらにはフジテレビ系「Live News イット!」、TBS系「ひるおび」、読売テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」等に出演するなど幅広く活躍中。
X(旧ツイッター)アカウント:@hara_daisakusen

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