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「死」というものを見つめる。

この前、祖父が亡くなりました。
来月で90歳という年齢でしたし、ここ数か月体調が優れないとは聞いていたので、驚きつつもすんなり理解できたような不思議な感覚でした。
お葬式にも出席しましたが、あまり悲しいという感情は浮かびませんでした。実感が湧いていないというのが大きいかもしれません。

例えば、倒れて入院したという知らせを受けて病院に駆けつけ、その後亡くなるところを看取ったということであれば、もう少し悲しいとか寂しいといった感情が浮かぶものかと思いますが、あまりにも急にあっという間にこの世を去ってしまったのでどこか信じがたいというような気でいます。

亡くなったという知らせと、棺桶の中で眠る祖父の姿と火葬されて残った遺骨がどうも一つに繋がらず、明確に祖父が亡くなっているという確証を得られていません。

出棺に際して、参列者で棺にお花やゆかりの品を入れていくところで涙ぐむ方が多くいましたが、そこにもあまり共感ができませんでした。
亡くなったことに悲しむのであれば亡くなった瞬間であると思うし、その瞬間が最後のお別れであるとの説明を受けましたが、賛同をしかねます。
自分が故人を忘れなければお別れでも何でもないし、単に物理的に会うことができなくなっただけに過ぎないと自分は思います。

あまり参列したことがなかったので知識がなかったのですが、お葬式は故人の死を悲しむ会なのではなく、故人が無事極楽浄土に渡るための手続きというか儀式なのだなと思いました。
だからお葬式自体に悲しまなければいけないというような意図はないのだろうと思います。

これから少しずつ受け入れて寂しさを感じていくのかなと思いますが、悲しいと思うことがあるのかちょっとわかりません。
死というものがあまりわかっていないということがあるのかなと思います。
会えないけども心の中にはいるしなという思いもあります。

加えてお葬式で感じたこととして、「死」は人生の集大成であるということです。お葬式には親戚や生前に関わってきた人たちが参列します。これはその人の人望が出ると言ってしまうと下品かもしれませんが、自分は沢山の人が来てくれるような人生を歩みたいと感じました。
また、祖父の遺影はゴルフの大会か何かで優勝しトロフィーを持って微笑んでいるものでした。これに関しても人生の中でいい写真を残さねばなという思いが生まれました。

祖父には「お疲れ様」と「またね」という言葉をかけたいと思います。

P.S.まだ寂しくないとは言いましたが、この前のつばきファクトリーのライブで「キャベツ白書~春編~」という曲を聴いて「もういないんだな」という気分になって涙が溢れてきました。

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