悲しいことは忘れにくい。だから人生は少し不幸なまま進んでゆく。

薄れるけど、ずっと心に引っかかるもの

高校時代の親友が原因が分からないまま急死してから4年が経つ。4年経ってもうあまり思い出さなくなった。あんなにずっと一緒にいたのにな。あんなに悲しかったのに、今はもうほとんど悲しいとは思わない。まだ4年だけど、もうこの世にいないということが当たり前になってしまった。4年間で他にも色んな出来事があって、相対的に4年前の出来事は小さくなった。

亡くなってすぐ、親友の親御さんと話した思い出は部活後に2人で居残り練習したりイオンのフードコートでダラダラしたこととかで、振り返れば全てが楽しいものだったし意外と覚えていた。
「あ、もう自分のいる世界に彼はもういないんだ」と気付いて心が痛くなったけど、あの時間は間違いなく幸せだったことを忘れたかった。話しながらみんなで泣いたけど、悲しいということは幸せだったということだ。悲しくて幸せなことはそんなに多くないと思う。

ひっくるめれば肯定できるような人生

人生のうちで、きっと悲しいことは死ぬほど沢山あった。でもそんな記憶のほとんどは薄れて、思い出しても悲しくならなくなった。楽しいことも一緒で、死ぬほど楽しい瞬間は沢山あった。けど、今はもう何も感じなくなった。卒業とか、最高の瞬間が過ぎたたばかりの時は何度も楽しかった思い出を振り返った。けど、いつの間にかそういうことにもすがらなくなった。

長く生きるほど思い出さなくなる記憶が多い中で、残るのは強烈な記憶ばかり。強烈じゃない時間も、写真を見て思い返せば最高なものが多かった。いつのまにか終わってしまった楽しかった日々を、思い返すたびに少しだけ胸が締め付けられるような感覚になった。楽しさが過ぎるのは悲しいことだけど、そういう昔を肯定的に生きてられてきた人生は悪くないなと思った。


絶対にやってくる最後の日に向かっていこう

どんなことにも終わりが来る。ずっと一緒に遊びたいと思っていた友達とある日突然遊べなくなる日が来る。やるかやらないか迷ってることも、今日友達と遊ぶのも、だらだらと続けてきたLINEでのやり取りも、さっき見た絶景さえも、全て今日で最後になるかもしれない。「次はやろう」「次は言おう」と諦めて、その「次」が来なかったことが何度あっただろう。ずっと続きそうなことにも、最後はある。そう思うと、今目の前のことがとてつもなく愛おしく思えてくる。「もう後はないんだ」と、他愛もない行動にも気持ちが入るようになった。

終わりがあるから頑張れて、終われば達成感を得られる。終わりがあるから悲しくも心に残る別れとか、新たなスタートがやってくる。終わりがあるから楽しもうともする。でも終わりを意識してしまうと、どんなに今が楽しくても切なさがつきまとう。でも、僕らはそれに対してやれることはない。終わることを止める方法はない。だからこそ淡々と毎日を楽しんで笑って、出し尽くすしかない。長く生きていると、何度も楽しいことはやってくるかもしれないけど、次もやってくる保証はない。本当に楽しい時間は一瞬しかない。でも無駄な時間は1秒もない。脳は危機回避をしようと、悲しいことや苦しいことを記憶する。大事だから不幸なことは強く残ってしまう。そういう悲しい思い出の残る切ない人生も多分面白い。


一番幸せな人生とはなにか

こうやって人生を見ると、最高の時もあれば、それが過ぎ去って最悪な時もある。ギリシャ神話では、人間として得られ最善のものは死ぬこととある。生きている限り、見たくないものや経験したくないことに出くわす。だから、どの生き物にとっても生まれてくることは、初めから辛いこと。幸福なまま死ねば、今後経験するかもしれない不幸に遭わずにすむ。その意味で、死ぬことは幸福を完成させること。とある。
ラテン語の教科書には、「誰も死ぬ前は幸せではない」という一文がある。生きてれば、最愛の人を失ったり、財産や富、地位を失うこともある。生きている限り、失うということから離れられない。なので、幸福にはなりたくて努力しても人生の仕組み的になることは難しい。だからもういっそ、自分だけの強力な力で幸せであろうとするしかない。

三木清は人性論ノートで、「成功は進歩することに関わり過程が重要になるが、幸福には本来進歩は関係なく、幸福は存在に関わる」と言った。何も達成せず、何も持っていなくても、成功してなくても人は幸福になれる。成功しなくても幸福になれるのではなく、成功しなくても幸福であるのが正しい。これからの人生の方が長いのに、これから楽しいに決まってる。今までも楽しかったけど、これからも絶対楽しい。っていう感じ。笑

脳にとって、反応する世界が全て。同じものを見ていても、同じように感じてはいない。音感のない人は「ド」の音を聞き分けることはできないし、色盲の人は青色が見えなかったりする。本当に存在しているかよりも、存在を知覚しているかが全て。幸福を沢山近くすれば、人生は幸せであれる。


幸せはどこにある?

「これを我慢すれば楽しいことがある」という毎日ではなく、「この時間がずっと続いてほしい」という毎日を過ごしたい。「この時間がずっと続けばいいのになあ」と思っていたその時間の延長線上に、なりたい自分がいて満足があり本当の自分がいる。幸せはそうなりたい(ありたい)と未来に向かって求めるように見えて、実際にはこれまで積み重ねてきたものや経験から得られるものが大きい。そういう意味で過去に向かって広がっているものと言える。幸せはここに今あるかではなくて、知覚されるものとしての意味も大きい。

出会いが人生を変えたという人がいる。
出会いという偶然は単に幸運だったに過ぎず、人生を変えたわけではない。たまたま巡ってきた出会いが、その人にとって後々意味のあるもの、必然のもの、運命的なものになるかどうかはその人次第である。運命は出会いまで。しっかり準備すれば、偶然の出会いを必然の出会いにすることができる。同じチャンスをものにできるかどうか決めるのは、自分の実力次第なのである。

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