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東日本大震災後、陸前高田市に神戸から6年間通い続けて感じたこと①

僕は2013年から現在に至るまで、東日本大震災で甚大な被害にあった岩手県の陸前高田市でボランティア活動をしています。

神戸から30回以上通い続け、僕の大学生活は陸前高田と共にありました。陸前高田そのものでした。震災を経験していない自分が、震災によって人生を変えられました。

陸前高田という町が好きです。6年間もみんなで笑いあって楽しい時間を共有できたことに誇らしさと幸せな気持ちを抱いています。(もちろん辛い記憶も多いですが)

今回はその6年間を振り返っていこうと思います。


これを書くにあたって

「震災から今日が何年目だった。」
「こうやって過ごした。」
「イベントに行った」
というようなSNS投稿をよく見かけますが、僕は今まで一度も発信したことがありませんでした。

ボランティアしている人たちのおごりに見えてしまうからです。自分が人より意識高いことしてる!というようなアクセサリーをまとってしまう気がするのです。確かに、東北や震災のことについて発信することはとても大事なことです。しかし、アクセサリー投稿に見えてしまってはあまり「発信」になってる気がしないのです。やらない善よりやる偽善とは言いますが、偽善に満足してしまって善について考えないようになってしまうのは怖いです。 

このようなことをすべて踏まえた上で、今回この記事を書きます。

僕の6年間をこの記事に込めたいと思います。

神戸大学東北ボランティアバスについて

僕に陸前高田市でボランティアをするきっかけを与えてくれたのは、神戸大学にある「東北ボランティアバス」(通称 ボラバス)という団体でした。

神戸大学には阪神淡路大震災を機に発足したボランティア団体がいくつかあります。その団体メンバーの数人が東日本大震災の3日後に陸前高田市で活動しに行ったのが「ボラバス」の始まりです。


ガレキ撤去ではないボランティア

被災地では学校のグラウンドや広場にまとめて建てられた仮設住宅にある集会所で、お茶会や足湯などのイベント開催を様々な仮設住宅で5日間やります。がれき撤去などハード面での支援もやりますが、メインはイベントを通しての傾聴や癒しの場作りといったソフト面での支援です。

現地までは、大型バスを1台貸し切り約40名の学生を連れていき、現地ではレンタカーで5,6人に分かれ活動します。その準備から被災地での活動のアテンドまで全てをするのがボラバスです。

その準備がとても大変で、10人弱のメンバーで「5泊7日の40名派遣」を2ヶ月に1回行っていました。活動内容をざっとまとめると、以下の感じです。

●派遣前の準備
・現地での活動場所へのアポ
・活動先、活動内容の検討と決定
・行程表などの資料作り
・他大学など一緒に活動する団体との打ち合わせ
・新規ボランティアの募集
・参加ボランティアへの説明会、講習会
・必要な物品準備
・バスチャーターやレンタカー手配などの対外的な準備
・ミーティングの準備と開催

●現地でやること
・全体のスケジュール管理
・現地の人の対応(田舎は特に信頼関係の形成が大事です)
・ボランティアメンバーの管理(被災地での活動なので色々な気を使います)

●その他の活動
・助成金の獲得(企業へのプレゼンや書類作りなど)
・他団体との関わり(話し合いやイベントへの出店など)
・広報活動(高校での講演会や広報誌作成、募金など) 

ボランティアをするだけではなくボランティアを支える経験は、現地での活動1つ1つに思いが込められていきました。

また、ボランティアは100%善意での活動であったとしても、相手が受け入れてくれるとは限りません。現地で活動するには「してあげる」ではなく「やらせてもらう」というスタンスが必要です。


「次も!」が重なって、6年になった

僕は大学に入るまでボランティアにまるで興味がない上に、東日本大震災に対してもほぼ無関心でした。

ボランティアが偽善だとか、高尚なものだとか、そういう議論にも無関心でした。全くと言っていいほど、自分の世界にボランティアというものはありませんでした。そんな僕が陸前高田に通いつめるまでになったのは、すべてボラバスのおかげです。

入学した当時の僕は「自分を変えたい」という思いが強く、色んなことにチャレンジしました。その中の1つが陸前高田でのボランティアでした。 陸前高田から帰って来てすぐに、次もまた早く行きたいと思うほどでした。その「次も!」が重なり、今に至るまで陸前高田に通っています。 


所詮ボランティアを本気でやる

ボランティアが東北に対して出来ることは、本当に小さいです。そんな所詮ボランティアは、たくさんの時間と労力をかけて東北やボランティアについて深く関わる機会を与えてくれました。本気になれるものがあるというのは本当に幸せでした。

本気でやればやるほど、色々なチャンスにめぐり合うことができました。対外的な仕事ので様々な場所に行ったり、学生、東北の人、他大学の先生、社会人などたくさんの人と話をすることができました。
たくさんの場数踏めたことも良かったです。説明会でのプレゼンや講演会など大人数の前で話すことがなんどもあったので、堂々と緊張せず話すスキルが身につきました。

なによりも思いを込めてやって来た活動だったので、東北の人が喜んでたら感動し、ボランティアが笑顔でいると嬉しい気持ちになります。活動がうまくいかなくて悔しい思いもたくさんしました。全て含めて、色んな感情と出会い、貴重な経験ができたなと思います。

 

ボランティアとして6年間で何ができたのか

ここからは、実際ボランティアをしてきて考えたことを書いていきます。

ガレキ撤去など多くの人がイメージするハード面のボランティアではなく、集会所での精神的ケアがメインだったので、6年間でたくさんの人と接してきました。

一緒にお茶を飲んだり足湯をしながらお喋りしたり、単純に1人暮らしの人の人手として働いたり、グラウンドが仮設住宅になって遊び場をなくした子どもと遊んだりと、色々やって何とか助けになろうとしました。大切な人を亡くして引きこもりになった人やアル中になった人、心に深い傷をおった子など、僕の手で救いきれない人もたくさんいました。

多くの人によりそって少しでも自殺者を減らしたい、人と人とを繋いでコミュニティを作りたいという思いで走り抜けてきたけれど、どこまで出来たかは正直分かりません。

しかし、その日僕たちと出会えて、「いつもよりも疲れて寝るときのお布団が気持ちいい」とか「ご飯がおいしい」といった、今日をいつもよりもHAPPYに思える1日に変えることはたくさん出来たかなと思っています。

 

この人だからこそできること

ボランティアの中には、話すのが上手い人や場を盛り上げるのが上手い人がいます。そんな人を見て、「自分は何も出来なかったな」と悩む人が一定数います。

みんなが話し上手である必要はなく、その人だからできたことを大事に出来ればいいなと僕は思います。苦手なことを無理してやる必要はなく、自分ができることを上手く活かす術を身につけることが大事です。

自分の活かし方、周りの活かし方を知っているというのは、大きな強みになると思います。

周りがガレキ撤去してる中、僕らは仮設住宅に通い続けた

ガレキ撤去などのハード面での支援は、目に見えて結果がです分かりやすい支援です。一方、傾聴などのソフト面での支援は効果が見えにくく、「なんでそんなんやってるの?」「効果あるの?」とよく言われます。しかも、カウンセラーや臨床心理士などのプロではなく素人です。そんな武器のない僕たちが何をできるのか。 

それはボランティアとして、最後の1人を探すことです。

まだ、どこかで助けを求めている人がいるかもしれない。その最後の1人を探しだし、「ボランティアと被災者」から「あなたとわたし」とよりそいあって進んで行く活動をしているのだと考えています。

「あなたとわたし」は支援を受ける・与えるという関係ではなく、ボランティアのハードルを超えた友だちのような関係のことです。支援を受け続け、ありがとうと言い続けるのは、実はしんどいことだとよく聞きます。僕たちの支援が支援じゃなくなれば、受け取る側の負担も少しは減らせるのかなと思っています。

支援じゃない支援が実現できれば、ボラバスとしての派遣が終わった後でも関係は続いて行きます。支援をしに行くのではなく、仲のいい人に会いに行くという感覚ですね。

 

神戸から、"今"行くことの意義はあるのか

「自分たちの活動がどれくらい必要なのか」ということについてはよく考えます。

ボラバスの活動が、被災地にとって「絶対に必要なもの」ではないことも認識しています。その時会った人を少しだけ支える贅沢、いたら嬉しいなっていう存在だと思います。

助成金獲得のためのプレゼンで、「東京から行った方が交通費は安く済むよね。なぜ神戸から行くの?」と聞かれました。神戸から来ているという、場所に意味はありません。しかし、東京よりもたくさんのお金をかけて神戸から来ることに一体どれほどの意味があるのか、それを納得できる形で言語化出来ないのは大きな課題です。


今、東北へ行くことの意義

今年初めて行った人は震災当時の様子は知らないけど、震災から6年経った被災地を知ることができます。

震災からどうやって立ち直っていったかを、僕たちは知り、受け継いでいく必要があるなと思っています。


続く

 


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