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まえがき

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「最近の若いもんは、、、」と、つぶやくようになったらオヤジ化現象が始まったと考えてよいのでしょうか?
いえいえ。問われるまでもなく、私はもう十分オヤジです。
私は、1972年(昭和47年)の生まれですから、気が付けば本書執筆時点で42歳。まだまだ若いと思っているのは気持ちの中の自分だけで、理由もなく身体の至るところに痛みが出るし、このまま抜き続ければ丸坊主になってしまうくらい白髪も増えました。その前に、「まだまだ若いと思っている・・・」なんて言ってる時点で既に若くないのです。そんなオヤジが「最近の若いもんは、、、」とつぶやくのはお約束なので許してください。

では、私が、最近の若いもんはどうだと思っているのか。
実は、「最近の若いもんは、かわいそうだ。」と思っています。
なぜそう思っているのか。
その一番の理由は、今の若いもんは「ろくに教わっていないまま現在に至っている。」と感じているからです。

我々の世代はまだまだ良かった。私はそう思っています。
段階ジュニアと呼ばれた我々の世代は、とにかく人が多い。私は大阪の南のベッドタウンである堺市で育ちましたが、小学校は1学年6クラス。中学校は1学年9クラス。高校に至っては1学年14クラスでした。いずれも40人学級でしたので、今の平均的な1クラスの人数よりも2~3割多い。そして、それだけの人数を抱えた学校から歩いて行けるくらい程近い距離にもう隣の学校があるという超過密な状態にありました。さすがに小学校ではそういうことはありませんでしたが、中学校、高校にもなると、3年間先生に名前を覚えてもらえなかった人が居るくらい、少しでもおとなしいと埋没してしまうという環境でした。
そして、我々は、一番楽しいはずの大学生活をいわゆるバブル景気が終焉を迎えたあたりで過ごし、卒業する頃には就職氷河期がやってきた、ちょうどそんな世代です。
これを聞くと、「なんだ、最悪じゃないか。」と思われるかもしれません。そして、「ろくに教わっていないのは、むしろあなた方のほうじゃないのか?」と思われるかもしれません。確かにそういう面も多々ありましたが、しかし、それでも我々の世代はまだ良かったのです。

学校を卒業し、新入社員として会社に入ってから、何もわからないまま時間だけが過ぎるという時期を経て、力量不足ながらも一通り経験を積むことができるまでの5年間くらいは、まだまだ昭和の臭いが残る昔ながらの雰囲気もありました。今から10年くらい前のお話しです。
昭和の世界ですから、”まずは黙ってやれ。理屈は後からついてくる。”とか”仕事は上司や先輩のやってることを見て盗め。”など、厳しさの程度の差こそあれ、基本的にはこういうことがまかり通っていました。
そして、そのような指導(これが指導か?)を受ける我々も、小学校・中学校・高校・大学と、いわゆる昭和の世界の教育を受けてきましたので、良くも悪くもこの雰囲気に順応することができました。「まずは言うとおりやって、自分独りでもできるようになろう。そして、いつしか、上司や先輩を追い越せるようになろう。そうすれば、仕事ができると評価され、独り立ちした社員として認めてもらえるんじゃないか?」というように、その先にあるはずの、なりたい自分や将来の希望を描くことができました。

しかしながら、そう言う我々も、一寸先すら見通すことが難しい現代において、なかなか自分の将来像を描くことができず、言い知れぬ不安に苛まれているというのが紛れもない事実なのですが、これは、本書のメインテーマではないので、とりあえず横に置いておくことにして、もっと大きな不安に苛まれていると思われる皆さんのためのお話しをしなければなりません。お話しを戻しましょう。

それでは、今、新入社員として企業に入ってくるような年齢の、いわゆる「若いもん」はどうでしょう。
自分たちが好きで選んだ教育方針でもなんでもないのに「おゆとりさん」などと言われ、(理不尽なことも含め)我々ほど鍛えられてもこなかったのに、いざ会社に入ってみたら、そこは、”まずは黙ってやれ。仕事は盗んで覚えろ。”の世界な訳です。
もちろん、そんな生き方は、これまでの自分の人生を振り返っても、あまりなかったことだと思いますので、「あぁ、そういうことは言われちゃうこともあるかもね。」という感覚すらないでしょう。だからと言って、ようやく掴んだ就職先ですから、まずは、そこで頑張るしかありません。学業そっちのけで頑張った就職活動の結果、得た仕事ですから簡単に辞める訳にはいきません。
頑張るとか頑張らないとかは”自分の気持ち”なので、比較的コントロールすることが可能であるかもしれません。何とかモチベーションを保ち、何とか希望を見出すことができるかもしれません。しかし、”何も教えてくれない”ということについては、その前に「自分以外の人や環境が」という言葉が付きますから、コントロールすることがかなり難しい。ましてや、最近入社したくらいの若いもんがどうこうできる問題ではありません。
この環境をなんとか変えるために、努力する余地がまったく無いのかと言えば、そんなことはありませんが、成果を上げられる可能性はほとんどないでしょう。
「自分の努力次第で環境はいかようにも変えられる。」とか、「成果は単純に活動量に比例する。がむしゃらに動こう!」など、若者向けにもっともらしいことを書いている本はたくさんあります。しかし、自分以外のものを変えるということは、そんな簡単なことではありません。私自身、それはそれは何度も挑戦した歴史があります。あらゆる事に対し、「だから駄目なんだ!」という想いを胸一杯にして、改革(という名のエゴ)を断行しようとしたことが何度もありますが、あまり成功した記憶がありません。考えられる理由としては、若さゆえまだまだ信用力がない、とか、やり方が高圧的だった、とか、いろいろあると思いますが、やはり、一番の理由は、そもそも、コントロールできない自分以外をコントロールしようとしていたのが間違いだったのではないか、と思います。
自分が変わることで見方を変える、とか、直接的な変化を求めるのではなく、自然とそうなるようにあらゆる働きかけを試みる、ということが必要だったのではないか、と、今はそう思っています。
とにかく、徒労に終わることがほとんどであると考えられる若者の挑戦は、折角の頑張ろうという気持ちをいとも簡単に折ってくれることでしょう。残念でなりませんが、それが現実なのかもしれません。
そこで私が心配に思っていることは、挑戦が失敗してしまったことに対して気持ちがへこんでしまっているであろう若者に対してではなく、その若者と共に仕事をしてるはずの我々オヤジに対してです。
挑戦する前はもちろん、失敗したときにさえ若いもんの話しを聞くこともなく、共感することもなく、自分の経験談を話すこともなく、出来る限りのアドバイスや激励をすることもないと思われるオヤジに対してです。
挑戦する前に、どのようなアプローチをとれば少しでも成功に近づけそうか、とか、失敗したときに、何が良くなかったのか、など、若いもんに比べると、どのくらいの差があるかは別にしても、知識も経験も豊富なはずのオヤジが、全くと言っていいほどサポートしてないことによって若いもんが困っているのではないか、いや、若者が困っているのではないかということにすらオヤジが気付いてないのではないか、ということをものすごく心配しています。

もうどれくらい前のことか、記憶が定かではありませんが、フジテレビ系列で放送していた「トリビアの泉」という番組がありました。
その中のトリビアの種というコーナーで、
「野球を知らない人々に野球道具一式を渡し、一週間考えてもらい、出来たのは、、、『ケンケンで捕虜を取り合う競技』」
というのがありました。
アフリカの国、チャド共和国のとある村の人々に、バット、ボール、グローブ、ベース、帽子など野球の道具を預け、これらの道具を使った9人対9人の競技を一週間考えてもらい、その結果どうなるかを確認するという実験です。
村人たちが考えた競技の概要は次のとおりです。
・攻撃側は二人一組でボールを運びながら攻める。
・守備側は一人で攻撃を防ぐ。
・攻撃側が守備側のベースにボールを置くと攻撃側の勝ち。守備側の一人が捕虜になる。
・守備側が攻撃側から奪ったボールを運び、攻撃側のベースにボールを置くと守備側の勝ち。攻撃側の二人が捕虜になる。
・全員が捕虜になると競技は終了。
・両チームとも移動は片足、つまり、ケンケンで移動する。
・守備側がグローブをかぶり、審判が金属バットを利用する。
究極にまで寛大な心を持って判断したとしても、野球のルールとは似ても似つかないと言わざるを得ません。
しかし、これを見たとき、私は、まったく笑えませんでした。なぜなら、自分が新入社員として入社した当時のことを思い出したからです。

私が入社した当時、私が勤める会社は、主力商品のフルモデルチェンジ版を発売した直後で、会社全体が忙しい状態でした。上司や先輩は、新入社員の面倒を見るどころか、目の前の自分の仕事もままならない様子で、こちらから話しかけることはもちろん、上司や先輩から話しかけてももらえませんでした。上司から課題として渡された本を読み、その感想をレポートとして提出するだけの日々が3ヶ月くらい続いたように記憶しています。課題図書が尽き、その旨上司に申し出ると、「だいたいどのようなことを知らなければならないかが理解できたと思うので、これからの課題図書は自分で調達して作業を継続してください。」と指示をされました。
業界のことも会社のことも仕事のことも、それ以前に、社会人としての立ち居振る舞いも、何もかもわからない新入社員に、ただただ「やれ」と言われただけのような気がして、強烈な不安に襲われました。
「そりゃ無茶ですよ。もう少し何か方向性を示すというか、ヒントになるようなお話しくらいしていただかないと、今やっていることが、本当に学習になってるかすらわかりませんよ。」と正直に言ってもよい世界なのかどうなのかもわかりませんでしたから、途方に暮れるとはこういうことを言うのか、と感じました。

こういう経験から始まった私の社会人生活も15年以上の時が過ぎ、キャリアを積んでいく中で、後輩に対して教育的な立場になったり、役職者として課員に対して指導的な立場になったりもしましたので、「どうすれば、メンバーそれぞれにマッチしたアドバイスができるのだろう。」ということを常に考えながら、若いもんと仕事をしてきました。

このように過ごしてきた結果、自分なりに得た結論は、「相変わらず若いもんはろくに教わっていないな。」ということです。
私の個人的な感情を込めて、もっと正確に表現するなら、「相変わらずオヤジは若いもんと一緒になって考えることをしていない。」ということです。
”教える”というと、前提として上下や師弟という関係があり、指導や教育という意味が多分に含まれていると思いますので、どうも偉そうな言い方にしかなりません。それは、私の感覚からすると、あまり相応しい言葉ではないように思いますし、もっとも、若いもんも「頼んでもないのに教えてもらう必要なんてない。」と考えているかもしれませんしね。
ですから、ここで言う「教える」という表現の意味は、あくまでもアドバイスをするというレベルのものです。
対等でフラットな、一緒に仕事をする仲間として、たまたま年齢もキャリアも自分の方が上だっただけであり、たまたま経験上社会人としての基礎能力が高まっているだけなので、指導や教育ではなく、アドバイスと言ったほうが良いと思います。
アドバイスですから、その内容は、個人的な見解という域を出ることはありません。アドバイスする方も確固たる自信がある訳でも、絶対に正解だと言い切れる訳でもありませんし、自分たちだって、自信満々で生きてきた訳ではありませんから。
しかし、だからと言って、何も発信しない訳にはいきません。今後、ますます少なくなっていく貴重な若者ですし、我々だって、そんな彼らと、何十年先も一緒に仕事をしていくことになりますので、より良きパートナーシップを築くことができたほうが絶対良い。
だから、我々オヤジのような、アドバイスする側にとって、一番大切なのは、まずは、若いもんの話しをよく聞き、理解しようと努力し、そのうえで、相手の立場や心情を想像しながら、出来る限り相手にマッチしたアドバイスをしてあげることなのではないか、と思います。
言い換えると、若いもんに寄り添い、若いもんが気にかけてもらっていることがわかるようにしてあげることなのではないかと思うのです。
もちろん、耳障りの良いことばかりがアドバイスではありません。確実にこれは誤りだと認識できることに対し、それが誤りだということに気づいてほしいがために叱ることもあると思いますが、自分のために、自分のことのように、一緒になって考えてくれてるんだ、ということに若いもんが気づいてくれれば、極端な話し、アドバイスの内容が合ってようが間違ってようが、自信があろうがなかろうが、褒めようが叱ろうが、大したことではないのではないか。私が若いもんならそう思います。

「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」
これは、あのマザー・テレサが残した名言のうちの一つだそうです。

残念ながら、これは、ちょうど私が新入社員として就職した直後に直面した状況を適切に表現した言葉です。そして、この状況は、私が就職した約15年前から、それほど変わっていないのではないかと感じています。
教育や社会や文化やその他あらゆることがめまぐるしく変化していく中で、社会人の仲間に入ってくる若いもんを取り巻く環境も少しは良くなっているのかもしれません。
しかし、世の中の変化のスピードがますます速くなるのに対し、相対的に、私が意味するところの「教える」、もっと真意を伝えるならば「一緒に考える」ということを取り巻く環境だけが、極端に取り残されているのではないかと感じています。

やはりこの状況では、若いもんは辛い。
私は雇用や人事の専門家ではないので詳しいことはわかりませんが、自分が今の会社で過ごしてきた経験から鑑みても、3年以内にやめてしまう若いもんが年々増加しているのも理解できます。
このあたりの詳しいお話しについては、城繁幸さんの著書「若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来」(光文社新書)に書かれていますので、ぜひ読んでみてください。

そこで、そういう若いもんのために、私が、少しでもお役に立てれば、と思う訳です。

しかし、そのお役の立ち方が、
「今も続く昔ながらの会社の雰囲気・文化・しきたり・ルールといったものは、こういうことなので、早く理解して順応したほうがいいよ。」
ということを言うだけに終わってしまうのなら、そもそも役に立っているとは思えませんし、そこらへんのオヤジと同じだと思います。
そして、偉そうに「教える」と言ったところで、「こうすれば何もかも大丈夫」という自信も確信もありません。私だって、悩み苦しみながら社会人生活を過ごしてきましたし、それが、いまだに正解かどうかなんてわからないながらも、自分を信じて進んでいくしかない、と考えているだけに過ぎません。
ですから、スタンスはあくまでも「若いもんと一緒に考える」です。一緒に考えるためのネタを提供し、特に、「会社における昭和の世界」といった、私が知っていることをお伝えし、それに対して、本当のところ私はどう思っているのかを”ぶっちゃけ・・・”という形でお話ししたいと思います。

これからの長い社会人生活を過ごす未来ある若いもんが、考え方一つで少しでも気持ちが楽になるなら、そして、そのお手伝いができるのであれば、そんな嬉しいことはありません。本書が、少し疲れてるのかな、と感じたときに、一時避難して、一度冷静になってゆっくり考えることができる隠れ家のような役目を果たすことができれば幸いです。

2014年11月2日

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