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あした帰った(劇研アクターズラボ+伊藤拓也)「あなたは山になる」 劇評

 高槻城芸術公園劇場はとても新しくおしゃれな建築で、エントランスにはカフェがあり、人だかりができていた。音楽演奏のイベントがあったようで、ビシッとスーツで決めた受付のスタッフさんたちが忙しそうにしている。パッと観ただけで客層も演目もいわばハイカルチャーな感じがした。
 さて、「あなたは山になる。」はどこでやっているのかと見回しても、目立った案内も無いしそれらしき人たちも居ない。スタッフさんの一人に聞いてようやく地下一階で行われるという事がわかり、人だかりから随分離れた廊下の突き当りにようやく地下へ行く階段があり、そこまで歩いていく。
 するとそこには、あきらかに一階とは違う人々が集まっている。一見しただけで(ここではあえて使うが)「フツーじゃない」人たちが集まっているのだ。受付を終えて待合室のような場所に入り、四角のテーブルに5、6人で座るようになっていたので座る。紅茶が配布されており、テーブルの真中にはレーズンが置かれている。私以外の参加者たちは何らかの知り合いのようで、適当に話したりしている。もうこの時点で私はかなり緊張していた。これは来てはいけないところに来てしまったんじゃないか?
 でも主催者の伊藤拓也さんらしき人はとてもフラット人と接していて、彼の知り合いにも知り合いではない人にも同じようなテンションで接しているようなので、すこし安心できた。どうやらこの待合室は開演前の待機のようで、また別の場所に案内されるまでの待ち時間のようだった。そしておそらく、観客をリラックスさせる意味合いがあるようだということがわかってくる。(そうは言っても待合室のスタジオの狭さとアウェー感によって緊張はした。)

 その後、比較的大きなホールに案内され、舞台が始まる。といっても始まるというにはなんだかゆるい始まり方をした。まず、みんなで体操をする。舞台上の役者と演出家が体操をし、「よかったらご一緒に」と誘ってくる。私は普段だったらこういったものはあまり参加したくない方だが、なんだかこっちが参加しようがしなかろうがどっちでも進行に問題はなさそうな雰囲気と、こちらにちゃんと選ばせてくれるフェアな空気の「演出」(これはもうその場に行かないとわからない、人柄のようなもの)があったので、動かしたいなと思ったときだけ無理なく体を動かすことができた。これは地味だがすごいことだと思う。

 ここまで、観客は観客同士でも意識しあっている。最初一緒のテーブルに座って顔を突き合わせたことも、その助けになっていて、どうしてもこの劇の観客席の多様さに目を向けざるを得ないのだ。先程、「フツーじゃない」人達と行ったが、車椅子で移動されている方や、一見して何らかの障がいをもっている方(私の中でどのような基準でそれが判断されているのか、これだけで考える価値のあることだが)がともに客席にいる。私は最初、そのことに異様に緊張したのだった。なにかを試されているのかもしれないと思ったし、自分が言動を間違えれば誰かを容易に傷つけてしまいかねないとも思った。これは多くの人が「フツー」の日常を送る中で突如出会うそのような「他者」を前にして、感じたことのある緊張なのではないだろうか。
 とても面白かったのは、先述した劇場一階のスペースにいた人々の集まりが、いかに文化芸術的「フツー」を着飾った、または押し着せられたものなのかが、同じ劇場の地下でこの劇が行われることでくっきり可視化されることだ。服のチョイス、振る舞い方、言葉遣い、それらがおしゃれな劇場という場によってか、芸術というもののハイカルチャーな雰囲気によってか、あるルールによって決定されなければいけないということが劇場に集まる人々の間に共有されているような感じがする。最初に私が感じた緊張は、そういった無意識的なゾーニングから自分が解かれた感覚からくるものだったのかもしれない。

 ストレッチが終わり、次は瞑想のシーンが始まる。観客も参加する誘導瞑想で、その場に身を委ねてリラックスしてもらう仕掛けだが、このころにはもうほとんど体の緊張はほぐれ、これから起こることを穏やかに眺める眼差しの準備が出来上がってきた。若干の眠気さえする。瞑想は最後、「心のなかに山を思い浮かべてください」という指示になっていき、山のイメージと自分が重なっていくようになった。完全に観客の内部で現象を起こすことに成功していることに静かに驚き、この状況に無理なくもっていった演出(もしくは生き方なのかもしれない)に優しさのようなものを感じた。しばらくはこの優しさを疑いつつ、自分の体重をゆっくり委ねて、恐る恐る体を開いていくような時間が続いていく。

 瞑想がおわり、劇が始まる。劇は山登りについての小説風の独白や、映像とピアノの演奏など、それぞれ表現方法はバラバラの断片の集合体のようだった。どうやら役者がそれぞれ自分の表現を作っていっているように見える。役者が無理をして演じるときに出てしまうあの恥ずかしさの抑圧や緊張の抑圧がないからそう思うのかもしれない。役者同士の関係性、役者と演出家の関係性ができているからなのか、演出家のアイデアと役者、そしてそれぞれのシーンに断絶がなく、いい距離感をもった「集まり」になっており、断片的でありながら一つの劇をみているという感覚がなくなることはなかった。
 後半になると、ラジオが配られた。いくつかのシーンでラジオから聞こえてくる声を聞くことになる。役者同士でハンドマッサージをしあいながら、ささやかな声で話すというシーンがあり、そのシーンではラジオから話している声が聞こえてくる。ひとしきり雑談のような話をしたあと、役者は一人ひとり自分自身の話をしていくのだが、そのシーンに私は驚かされた。本当に自然な声で発せられる彼(女)らの言葉が、おどろくほど素直に自分の中に響いてくる。そこには何重もの仕掛けがあって、例えばラジオを通していることで、距離が遠く感じられつつ近くに声がある不思議に寄り添える空間が成立していたことや、話をする役者は観客を真正面から見ずに、マッサージしてくれている役者の方を見ていることによってパーソナルな言葉に近づいたこと、また、発話する役者が本当にハンドマッサージによってリラックスしていることによって発話に無理がなかったことなどだ。一般的な舞台で想定されている舞台と観客席のわかりやすいベクトルがここでは拡散されている。役者は役者同士へ、観客は観客同士へもベクトルが向かっているからだ。そして抑圧から解かれ、許された声たち(口に出されているものも出されていないものも)は、集まりの間に漏れていく。その声に耳を澄ませて自分の声をそこに重ねると、私は自然に泣き出していた。

 あたかもそこで普通に生きているように、自分自身の奥底の動機から、そのシーンごとの役(割)を乗りこなして、「わたし」として立っている。それを見ている観客席に座った「わたし」は舞台上の「あなた」としての「わたし」(役者)の感覚を感じようと耳を済ませる。さらに面白いことに、これは単一の方向でのみ起こっているのではない。様々なベクトルでそのような現象が起こっているのだ。「わたし」の中の「あなた」(愛する人)に耳を澄ませたり、隣の席の、何故か祭りのハッピを着ていたおじいさんは今何を思っているのだろうと感じてみたり、あの小さい子連れの夫婦は、あの役者さんは、あの裏方さんは、と、色んな方向へ感覚が伸びていく。観客vs舞台、のような大雑把なくくり方を回避し、そこにいるのはごろごろとした個人としての「わたし」と他者としての「あなた」の集合でしかないのだと言ってくる。それはなにか雄大で動かない、けど様々な声が聞こえて根が生え、生き物がうごめいて生態系を結ぶ山のようだ。つまり、理解し切ることはできないけど耳を澄ませれば膨大な声のする「あなた」が出会って結び合って山になっていくのだ。

 ここで明らかになるのが、この劇は、一般的な演劇において自明のものとなっている「いい声をつくり、観客に届ける」という価値観ではない別の価値観を徹底的に通していることだ。それは「できるだけ自然な声を出せて、できるだけよく聞ける場をつくる。」ことだった。ここでは通常演劇や舞台芸術というものについて回る諸要素は、装飾に過ぎないことが明らかになってしまう。かっこいいフライヤーや美しい舞台美術、いい声やキレキレの体なんかは、むしろ素直な声を隠してしまいかねないとする。裸を志向する演劇だったのだ。これは演劇にとって、とても本質的な試みのように思える。

 また、この劇はあのきれいでおしゃれな劇場の地下で、文化的なコードに身をまとった(まとわざるを得ない)集まりの地下で行われたことで、ある批評性を持ち得た。それは、芸術の公共性とはなにか、より公共性を持ち得るのは「わたしは山になる」の集まり方(演出ー鑑賞ー演技)なのではないか、という批評=価値づけである。
 ただ、この作品を批評するのは非常に困難である。なぜなら批評とは「作品」に対して機能しうる価値体系を形成する行為なので、今回のように、「乱発した人と人の間接的であり直接的な出会い」や「よい集まり」や「あなたとわたしの人生」としか言いようのないものが、かろうじて作品の形を取っているようなものに、集まりの内のひとりである私が価値づけてしまうことはあまりに困難なことだからだ。

 なので、ここで私なりの可能と思われる「批評行為」をしてみようと思う。それは価値の体系を構築するための批評ではなく、価値のネットワークを見出すための批評だ。

「あなたは山になる」批評
 夕方まちをあるく
 すれ違うあなたを
 アリが死骸を運ぶのを
 時間に追われるのを
 いつもはゆるせないのに ゆるせた

 ゆるすことはしあわせなことだ
 
 あなたたちとの出会いは よいことだ


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