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「野良」という態度、または集団創作方、または上演について(芸術の野生化のために)

演劇入門 レポート

山田淳也

 私がこの授業で興味を持ち、学んだことは、日本現代演劇の成り立ちの特殊さである。西洋由来の「演劇」を明治になって持ち込んでから、まったく西洋とは違う発達の仕方をしており、それ故に生じたねじれのようなものは、多くの日本の演劇の状況で、未だに解決されていないんじゃないかと思う。そして、このねじれた構造は他の芸術ジャンルにも共通して存在している。日本における演劇を考えるなら、一つの指標になるのが明治以前明治以降という区分けだ。この授業では主に、明治以降日本の演劇がどのような道のりを辿ってきたのかを学んだ。これは近代化以降、といってもいいかもしれない。私が調べた太田省吾氏はその演劇論のなかでしきりに日本が近代化する以前の演劇、芸能について言及していた。私は、日本の演劇のねじれを解決し、日本の社会と演劇が障害なく結びつき機能し合うためにはこのような土着性や根っこにある文化を現代の演劇にフィードバックする必要があると考えた。そこで、このレポートでは日本の現代演劇が培ってきたコンテンポラリーな感性を根源的な文化と単純なコラボレーションではないやり方で結びつけるにはどうしたらいいかを考える。

 太田省吾が考察する演技の根源を私なりに解釈すると、正常な生活(安定した精神での人間生活)から逸脱してしまうきっかけとなる、なんらかの抑圧や衝動を抱えた人がその負の状態から脱するために行う行為、である。イライラした時に貧乏ゆすりしてしまう、とか。そういったレベルのものが演技の始まりにはあるはずだと考察するわけだ。私はそこからもう一歩考察し、その行為がある「ノリ」を共有した集団の中で増幅され、集団がある状態を体験することの中に芸能の劇性があるような気がする。その根源の仮説をもとに現代の演劇を思考すると、太田省吾の演劇や平田オリザの演劇などの、人生の静の時間を舞台に上げるという思考に近づく。人間の日常の中のごくわずかな振動のようなものが劇の種であり、人は生きるためのワザとして、わざわざ貧乏ゆすりをしてみせたり、嫌味を言ってしまったり、そうした無駄とも思えることをする。しかし、もはやそういった行為=劇の種にしか人間が人間たる所以のようなものの可能性が残されていないような気がするのだ。

 今、この劇の種をワザと言ってみる。これは生きるためのワザであり、人がワザわざやらないと気がすまないものとしてのワザだ。ワザにはいつも、何らかの希望がある。希望とは、太田省吾の演劇論「劇の希望」に記述されていたものを私の実感を根拠に言い直したものだ。ワザ=表現にはいつも希望がある。その人が望んだ何らかの想像、のぞみ、願いのような、本当にことばでは形容し得ないはっきりしない希望のような何かがある。岡田利規は彼の演劇論集の中で、身体とことばのベースには想像があるべきで、演技を作る際はその想像から作ると言っている。そう、希望はベース、つまり土台にあたるものだ。この土台という考え方も重要で、土台が無いと、鈴木忠志がインタビューの中で言うように、わたしたちは個ではなく孤になる。昨今多様性を受容するという意味でのポリコレ的なコレクティブネスが流行しているが、土台をすり合わせないままでの協働、コレクティブな作り方は単なるポリコレの確認作業であって、クリエイティブなことは何一つ無いといっていい。大切なのは、ある土台を共有したうえで、わたしたちがそれぞれのワザに呼応しあってある体験をしていくことだ。その体験が集合的なワザとなって、より大きな単位の社会をも呼応させうるとしたら、そこにこそ、社会を変えうる「希望」が見えるのではないだろうか。そして、それは近代以前の芸能にも共通したものではないだろうか。これは近代以降ではあるがオッペケペー節はそうした要請から出現したムーブメントだったのかもしれない。
  
 私はこの4月から、クリエイティブな集団創作のあり方を模索してきた。一人の演出家が指揮して作品を作るよりも集団創作をしたほうが演劇の集団性という特徴をいかし、社会に対してインパクトのある創造性を発揮できると考えたからだ。
 そこで行っている実験は、創作行為の「演じ回し」である。まず、誰かが自分のワザを戯曲として創作する、もしくは生活の中で見つけたワザを戯曲にする。それを実験としてみんなで上演してみる。それから他の人が、その上演に共振、共感できるポイントを探り、派生するように、自分のワザを戯曲化する。それをまた他の人が…というふうに、誰かのワザに共感する=演じることによって、共通感覚としての土台を創りながら上演の素材となるワザを創り、それらを最後にみんなで編集して一つの上演をつくることができる。この仕組みを利用して作ったのが、芸能「野良」という上演だ。この上演はそれぞれがバラバラの身体で、それぞれの状況の想像、発言をしているものがある共通感覚によってふわっと全体性を持って現れ、また、最後にそれぞれがその場にあるものとも共鳴し、響き合っていくような上演になった。まだまだ模索の途中だが、この方法には希望を感じている。そのとりあえずの集大成として今年の秋、「トニョーカ演劇祭」という作品を上演する予定だ。これは豊岡演劇祭を演じている。それによって起こるクリエイティブな効果を期待して創作中だ。

 以上がこの授業で学びつつ自分で実践として試してきたことのまとめである。
 


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