見出し画像

「『変化』と対面する」武本拓也の新作ショーイング&トーク批評

 武本拓也はこの5年間ずっとソロパフォーマンスを行ってきたアーティストだった。その彼が、他のパフォーマーと協働で作品制作するという挑戦を始めた。それと同時に長期間に渡る制作の実験も始めた。彼が問題にしているのは、おそらく作品主義的な業界の風向きであって、新作を無理してつくっては批評によって仕分けされ、あたかも作品も人も業界の代謝とアーティストのキャリアのために消費されていくような流れのことだろう。だからこの文章は単なる批評文のつもりで書いているのではなく、長期的な制作であるということを前提にした批評のあり方を探るものでもある。作品のみで批評してしまうことに武本拓也の場合意味をなさないと判断したからだ。まずは今回のショーイングのパフォーマンスを分析したあと、この行為はどのような可能性を持ちうるのかをパフォーマンス後のトークや制作プロセスを参考にして批評していこう。

 今回のパフォーマンスは4人のそれぞれ出自の違うパフォーマーが3つのシーンを構成していた。彼(女)らの出自は現代美術やダンスや演劇などばらばらで、だからこそ全く違う身体の有り様を見ることができた。これまでの武本拓也を知っている人が観たらまずパフォーマーの身体と武本拓也の身体を比較して考えることだろう。でもこの観方ではちゃんと観れないということに段々と気がついていく。まったく別物と言ってもいいくらい、よく見ると表面的には違っている。例えば、彼はパフォーマンスが始まると5分から10分ほど、本当に静止したように立ったまま世界を感知していく。だが、このパフォーマンスにはそのようにしているパフォーマーはいなかった。しかも走ったり、踊りに見えるような動きを取ったり、とにかく身振りからから武本拓也自身のパフォーマンスを想像するのが難しくなっていく。でもそれはよく見ると、パフォーマーごとにそれぞれの身体の扱い方、コードのようなものがあるのだということがわかってくる。つまり、武本拓也は自身の身体をコピーさせるのではなく、別のやり方で「振り付け」を行っていたのだった。

 あとのプレゼンテーションで武本本人が語っていたことだが、パフォーマーたちには提案しかしておらず、それぞれの身体の作動方法はそれぞれが創っていった、とのことだった。また、武本は集団創作において人を管理せざるを得ない場面に遭遇し、人が人を管理することの強烈さにどのように対処していくかを思案していると語っていた。そこでいろんなことが腑に落ちた感じがした。彼がやろうとしているのは自分のパフォーマンスの核となる部分を集団に適用させてみて起こりうる可能性の模索だろう。それを踏まえて今回のパフォーマンスと彼のソロパフォーマンスを重ねて見ると、よりエッジをきかせたある表現が浮かび上がるように見える。それは環境との交感による「質」の生成変化だ。「質」とは些細な出来事で発生する感じ方みたいなもののことをさしていて、例えば風で木の葉が揺れてもそこにはある質が発生しているし、ある人が道端でしゃがみこんだとしたら、そのような質が発生する。この世界を認識する際の最小単位のようなものを扱い、さらにそれを集団の中でそれぞれの質の有り様を捉えて環境と相互作用を起こしながら(どちらがどちらにアクションを起こしているのかわからなくなりながら)一つ一つの動作を関係性のなかで丁寧に配置していくこと(合理的に積み上げるのではなく)で、集団からたちのぼる質も見えてくる。それが、いままでは武本拓也本人しかいなかった、というだけのことかもしれない。

 この表現は、実は西洋近代が積み上げてきた芸術観、ひいては存在論に対する強力なカウンターになりうる。何かを根拠に合理的に論理を積み上げて自らの存在を確かめていくようなやり方でなく、「間合い」や「気」の流れのなかをたゆたうようにゆるやかな主体のような全体があらわになる存在のあり方を指し示してくれるのだ。

 実際このパフォーマンス&トークを終えたあと私が街を歩いていると知覚に変化が起きていることに気がついた。街を歩く自分を含めた人々と街の構造や情報とがたがいに関係しあい、歩く、止まるなどの動きが起こるたびに質感が生成変化していくのを感じ取っているような状態になったのだ。私達があたかも可能性の川のようで、流れに任せ変化していく姿を遊ぶような存在であるかのようだった。

 このような深い部分での気づきや、思考の継続は彼の問題意識を共有したからこそ可能だったかもしれない。制作プロセスを可視化し、問題意識を共有することで観客が消費ではなく生産を行うようになるかもしれない。そういった可能性はダンサーの手塚夏子も模索しており、彼女は自分の実践を「実験」と名乗り、観客に、積極的に作品を超えた彼女の実践全体に関わってもらおうとしてきた。今後、このような発表方法はますます増えていくと予想される。武本は自身の挑戦の領域を広げていっている。そしてその挑戦は彼個人の問題意識に収まるものではない、と私は考えている。もちろん作風の変化のように受け取られてマイナスな評価を受けることもありうるが、私はこれを作風の変化ではなく、作風の先鋭化だと捉え、この挑戦を積極的に追っていきたいと思う。

 この批評も不完全だ。武本拓也の批評だけではなく、本来ならば4人のパフォーマーの批評も同じくらいにしていかなくてはならないだろうし、私が実際に稽古現場まで入ったりもしていかなくてはならない場面もあるかもしれない。今後、作品のあり方とともに批評のあり方も変わっていくことが必要だ。私も積極的にその変化を受け入れて、批評のあり方を模索していこうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?