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プロレスの『ハッピーエンド』に関するオレなりの考察

2019年末に刊行した拙著『プロレスラーは観客に何を見せているのか』(草思社・刊)のP230~に、オレはこんなことを記述している。少々長いが転用する。

【最近のプロレスではあまり見かけることもなくなったが「両者リングアウト」と「反則裁定」にこそ、プロレスというジャンルがこの世に存在している本来の意義が秘められていると、僕は思う。

昔のプロレスでは「ここぞ!」という大勝負のときに限って不透明決着で終わることが多かった。

ジャイアント馬場さんが全盛のころの全日本プロレスなんて、世界一権威のあるNWA世界ヘビー級選手権ではだいたい、1-1から三本目は決まって両者リングアウトかレフェリー失神による反則裁定。ついに日本人選手が世界王座奪取か、そう思った矢先、無情のアナウンスが場内に流れるのだ。

「ただいまの試合、両者リングアウト(あるいは反則勝ち)によりチャンピオンの王座防衛となります!」

「あ~あ~!」

落胆の声をあげながら気づく、そうだった、NWAルールはピンフォールをとらないとベルトが移動しないんだった……。謎の「NWAルール」である。

観客は驚き、呆れ、怒り、釈然としない感情を抱えながらも「ま、しょーがねーか、飲みにいこうぜ!」と会場を後にする。

世の中は理不尽さに満ちている。だから、世の中の縮図であるプロレスのリングにおいても、時には「理不尽なこと」が起こる必要があると僕は思うのだ。そこをゴマかしてはいけない。

昭和のプロレスにおいては、ファンの人たちを「嫌な気持ち」にさせて家路につかせることがままあった。そして当時のプロレスファンは、そこから自分なりに気持ちを切り替える方法を身につけたり、または、そこに何か深い意味を見出そうとしたりして、人生における理不尽さと対峙するための術を学んでいたと思うのだ。

少なくとも、僕はそうしてプロレスからさまざまなことを学び、大人になった。

世の中にあるものはすべて、人間が成長するために存在していると僕は考えている。だから、プロレスも絶対にそうあるべきなのだ。

世の中、白か黒か答えが出ることばかりではない。両者リングアウトや反則裁定を受け入れられなければ、人生のどこかで必ず起きる理不尽な事態に対応できない人間になってしまうのではないだろうか。

プロレスは、そういう人間を育ててはいけない。人生のリアルな縮図を見せる。それがプロレス本来の役割だと思うのだ。

このことと関連して、僕が気になっているのが、いまのプロレス界では本当の意味での悪党が絶滅危惧種になってしまっていることだ。

少し前、SNSに「本当のヒールは嫌われることを恐れない」と書いたら、すぐにこんなリプがいくつも書きこまれた。

「それでは商売になりませんよ」

「オファーがこなくなりますよ」

時代は変わったな、と思わずにはいられなかった。

かつてプロレスには、ファンの人たちから心底嫌われ、カミソリ入りの封筒を送り付けられるような悪党が多数存在していた。ファンの人たちはわざわざチケットを購入し、そんな憎たらしい彼らへブーイングを送ることにより、贔屓のレスラーと一緒に「本気で戦って」いたのだ。

いま、プロレス界には「楽しいプロレス」という概念が蔓延している。

もちろん、楽しいという打ち出し方も「一つの正解」で、それを否定するつもりは微塵もない。楽しいことは良いことだし、ファンの方々にはどんどん楽しんでもらいたいと思う。見る側は好きなように見て、楽しんでくれたらいいのだ。

しかし、プロレスを見せる側までその概念に染まってしまって、その範疇から外れたものを提供することにビビッてしまってはいけない。プロレスというジャンルは、もっと奥深いものなのだ。

「なるべくクレームのこないプロレスをしよう」としているようにも僕には見える。それではどんどんプロレスがツマらなくなり、やがて地球上から消え去ってしまうだろう。

生きていれば誰だって、さまざまな出来事に直面する。そのたびに僕たちの心の中には、喜び、悲しみ、怒り、落胆、希望、欲望、嫉妬……さまざまな感情が渦巻く。

プロレスは、それらすべてを表現するためのものでなければならない。時には人間の邪悪さや醜さをさらけ出すことだって必要で、そこにビビッてはいけない。「楽しいプロレス」だけでは、人生の真実を表現することはできないのだ。

人間は、一人で生まれ一人で死んでゆく存在である。本質的には一人ぼっちで、己の行く手を阻む強大な敵が目の前に出現したら、自分の力で戦わなければいけない。プロレスは、そういった人間の生きざまを教示するジャンルだったと思うし、これからもそうあらねばならないと思う。

これは、僕がプロレスラーとして生きていくうえで最大の信念だ。もしもプロレスがそこにウソをついてしまったら、いったいどこに本当があるんだよと、プロレスラーである僕自身がそう思うのだ。】

この本を書いてから3年以上の月日が流れた。しかし、オレの信念はいまだに変わらない。そして、どうしてこういうことをいまさら蒸し返して書くのかというと、きょうの夕方に公開された九州プロレス所属・めんたい☆キッド選手の動画コメントに、なんだかとてつもない違和感を抱いたからである。その動画はこちら

彼がなぜそこまでハッピーエンドにこだわるのか?オレにはよくわからない。ハッピーかどうか。それは個人の感情がそれぞれに受信し感じ入るもの。意図的にそっちへ方向づけるべきものであるのか?オレには本当に???である。

よくわからないのだが、ハッピーか否か。そうではないのではないだろうか。そうではなく

『本気になれたか否か』

そっちのような気が、オレにはしている。応援する選手が勝っても、負けても。その選手の闘いを目にすることで感情が本気で揺さぶられたかどうか。応援する選手が勝って、喜んでもいい、本気で。あるいは負けて泣いたっていい、本気で。肝心なのはそこのような気がしている。

もしもプロレスがハッピーエンドでなくてはならないジャンルだと仮定する。ならば、そんなシーンはほぼ見られなかった昭和のプロレスがなぜいまよりも圧倒的に人気があったのか?時代背景の違いもあるかもしれない。しかしそれ以上に、やはり「本気」にさせていたのではないだろうか。人々を。かつてのプロレスは。そうでなくてはとっくに滅んでいたはずである。ハッピーエンド理論が正解だとしたら。

なので、めんたい☆キッド選手とのタイトルマッチが仮に実現するとするならば、オレ個人的な勝負のキモはベルトの行方もさることながら、このあたりが重要になってくると思うのだ。じゃ、ハッピーエンドってなんなんだよ!?と。

そしてつい先ほど、彼の挑戦表明にオレは返事を返した。全然構いませんよ、と。さあ、どうなるのか?あとは九州プロレス次第である。





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