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雑誌VS誰か(『STUDIO VOICE』2007年1月号)

最近、久しぶりに「最近何か面白い雑誌ありますか?」と聞かれました。もはやその問いかけ自体が懐かしくなります。家に帰って昔書いたコラムを思い出し、もう覚えてる人もいなそうだからネットに公開することにしました。初出は『STUDIO VOICE』2007年1月号です。本文は無料で読めます。

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雑誌好きだと公言してるので「最近何か面白い雑誌ありますか?」とよく聞かれる。返答としては『spectator』『BURST HIGH』『アックス』『季刊エス』『intoxicate』『ファウスト』『NEUTRAL』、ミニコミだと『nu』『三太』『UZO』といったところ。でも質問の本意は「最近(面白い雑誌がないんですけど)何か面白い雑誌ありますか?」というカッコの部分だろう。

「最近、雑誌というメディアは分が悪い。情報を素早く伝える役割はネットに持っていかれるし、情報を編集してわかりやすく提示するのは新書にもっていかれた。速度と編集の二番手に甘んじた後、残った紙束は広告の容器になってしまった」
「いやいやそうではない、情報がフラットになり優劣が見えづらい今、判断の指標がほしい人は意外といる。その人達に対して雑誌は生き残れるはずだ」
「いや、世の中はパーソナライズに向かっている。必要な情報は個人ごとに違うので、もはや固定化した一つの価値観しか見せられない雑誌に未来はない」
「違う、個性が違うと言っても人は他人と違うことを不安に思う生き物だ。戻れる場所が必要なはず」
「その役目を雑誌が担うとは思えない。マーケティングのしすぎで対象読者の細分化を招き、雑誌は特定の人達にしか売れなくなっている。その先に待っているのは袋小路だ」
「専門誌が増えたのは時代の流れで当然だ。ネットが総合的な情報を扱い、雑誌は専門知識を扱う。この役割分担で生き残っていくだろう」
「しかし一方では大衆化を目指し「それは一般的ではない」「それはマニアックすぎる」と不安要素を排除し無難になった結果、対象読者が抽象的すぎて誰にも引っかからない雑誌になっている。その先に待っているのは大量の返本だ」
「損益分岐点を見誤らず雑誌を作っていけば続けられるはずだ。何十万の読者を目指すことが未来だとは思っていない」

想像で書いたが、多分いたる所でこういう話がくり返されているのだと思う。ここにはメディア論(雑誌VSネット)と状況論(二極化傾向)が混在しているが、ワタシが本当に、一番知りたいのは、そんな現状認識の与太話ではなく、「作りたいものVSそれを阻害するもの」という「編集者VS誰か」の闘いの行方だ。出版不況だとか、雑誌が売れなくなったとか言われる中、肝心の編集者がどういう雑誌を作りたいのか。そもそも雑誌を本当に作りたいのか。そこが訊きたい。

「もちろん。自分が本当に作りたい雑誌を作ってます」←嘘つけ、もし旨みがなくなったら真っ先に削るタイアップ記事があるだろ。
「すべての責任は私にあります」←バーカ、だったら編集者じゃなくて責任者とでも名乗っとけ。
「貴方は現場の厳しさが判ってないんですよ」←ジャンル問わず厳しくない現場なんかない。
「ネットで自己満足してしまって新しい書き手が出てこないし」←なら良いライターが生活できるくらいの原稿料を保障してあげなさいよ。

意地悪に書くとこういう印象。書店にズラリと並んでる雑誌をパラパラめくっていても、心から自分達の雑誌を愛してる編集者ってそんなにいなそう。「長く続けていればそれなりに愛着がわいてくる」程度っぽそう。「あれよりうちの方がいい雑誌」という比較で認識してそう。雑誌作りは編集者と社会(社長でもスポンサーでもPTAのオバさんでも)の妥協点探しなんだろうけども、そこに悪戦苦闘するのに疲れて割り切っちゃってそうに見えるのが現在だ。

別にそれでいい。むしろそうであって欲しい。だって今ある雑誌が全部「本当に作りたくて作ってる雑誌」だったらそれこそ雑誌に未来なんてない。今はきっと抑圧されて不満がたまって、すぐにでも爆発しそうな編集者がゴロゴロしてるに違いない。彼らが爆発した時、「雑誌の黄金時代」は再びやってくる。

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