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第二話 鹿肉蔦木喰 ―もみじつたきばむ― (十)

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<十>


 父が叫び、兄が弾かれたようにモノを追って駆け出す。

桐眞とうま! 渡り廊下まで追い込め! 離れの結界の中へ!」

 父が声を張り上げるその脇を追い越して、駆ける者がもう一人。丸く刈った躑躅つつじの植え込みを軽々と飛び越えるような身軽さで庭の奥へと走り抜け、あっという間に姿が見えなくなった。まるで風のようだ。

「おにいさまっ!」

 あとを追えたのは、茉莉花まつりかの声だけだった。

「『ぼたん』やのうて、『もみじ』やないですか」

 呆然とする咲保さくほの横で呟く母の手には、いつ渡されたのか、荷の残骸ざんがいがあった。破れた紙の隙間から、赤い肉のかたまりがのぞいて見える。

「急な取り込みで申し訳あらしませんけど、熾盛しじょうのお嬢さんはうちと一緒にお願いします。咲保、あんたは庭から離れの方へまわり。あんたが居れば、あっちの結界も強なりますしな。くれぐれもお父さまの側を離れたらあきまへんえ。浜路はまじはんは、咲保をお願いします。ほな、こちらへ」

 こんな有り様でも落ち着いた様子で指示を出す母に従って、咲保は茉莉花にろくな挨拶をしないままに別れた。

 浜路を連れて庭先を通り、渡り廊下の前まで来ると、たたずむ父の姿が見えた。近くに寄れば、口の中でもごもごと祝詞のりとを唱えていた。守りを固めているらしい。弟と妹はその脇で、渡り廊下の欄干らんかんにしがみつく様にして、目の前の光景に目を奪われている。
 一際、見晴らしの良い氏神うじがみさまのほこらの前では、今まさに、しずめのための戦いが始まろうとするところだった。
 まるおは白装束の、まるで仇討あだうちに出るかのような姿で、祠の前で仁王立ちしている。ほうきを手に、じっ、と前を睨み据え、動く気配もない。よくよく見れば、そこだけ周囲を切り取ったように、祠を中心とした結界が見える。まるおが張ったものだろう。まるおは、祠を守る役目に徹するようだ。
 木栖きすみ家の氏神を祀る祠は、常時、家の敷地全体を包む結界の中に更にもう一枚、咲保のための離れ用の結界と重なる中にあって、家の中で最も安全な場所だ。そこにまるおの結界とは別に、もう一枚、庭を区切る結界が張られているのを感じた。父だ。被害が大きくなりすぎないように、庭の一部に外から新たな結界を張っていた。三重の結界の中では、万が一でも鹿が敷地の外に飛び出して、けがれを撒き散らすということはないだろう。だが、中にいる者は違う。
 近づくほどに肌がひりつき、息が苦し苦しくなる。心臓が口から飛び出そうなぐらい、どくどくと脈を打っていて、咲保は胸を手で押さえた。本来、咲保はこのような場には居ることもできない身だ。辛うじていられるのは、ここが家で、守護があるからだろう。浜路が側にいてくれていることも大きい。しかし、それでも、長くもちそうになかった。

(なんて大きいの……)

 通常の鹿よりも、倍ぐらいありそうな体躯をしていた。頭上に戴く、枝分かれした二本の立派な角を左右に振り、前脚で地面をかく仕草を繰り返していた。鼻息は荒く、全身からゆらめく湯気のようなものを立ち上らせ、かなり苛ついている様子が見てとれた。
 その牡鹿一頭に対し、武具を手にして対峙する兄の桐眞と、茉莉花に着いてきたらしい熾盛梟帥たけるの姿があった。二人からは臆する様子もなく、真っ直ぐに鹿をにらみ据えていた。桐眞の手には剣が、梟帥の手には槍が握られている。こうした戦いの場を間近にするのは、咲保も初めてだ。いずれも神具であり、降ろしたモノだろうが、銘あるものかまでは咲保にはわからなかった。

(怖い……)

 荒ぶる鹿も恐ろしいが、いちばん恐ろしいのは、その空気とそれを纏う二人だ。咲保には、兄たちがまるで別人に見えた。肉体なき鹿が形をあらわしたのと逆で、桐眞たちはその身に柱の御魂みたまを降ろし、半分、人ならざる者となっているようだった。
 本来、神事に携わる者は、荒事には向いていない。長きに渡りそちらは密教系の僧たちの独壇場だった。調伏ちょうぶくに相当する言葉が神道にはない、そのことからもわかる。全くなかったわけではないが、神道はまつるのが本道だ。祀って鎮める。だが、政府の行った廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより僧が数を減らしたことで、そちらもせざるを得なくなったというのが実情だ。桐眞や梟帥など若手がそれを担っている。だが、彼らとて経験は浅く、先達せんだつもほとんどいない状態で試行錯誤をする者のぼやきを、幾度となく聞いた事もある。ただ横で聞き流していたそのことを、今、咲保も実感した。こんなモノを相手にどう戦えと言うのか――。

「せいッ!!」

 掛け声も鋭く梟帥が突き出した槍を皮一枚のところで牡鹿はかわし、次には後ろ足立ちになって両前のひづめで踏み潰そうとする。それを転がって梟帥も躱し、次に桐眞が、気合一閃、斬りかかれば、素早く巡らせた牡鹿の角が受け止め、軽々と桐眞ごと跳ね飛ばした。宙を舞いながら桐眞は身体を捻ると、ひらり、と再び地面に降り立った。

「お兄さま、すごおい!」
「がんばれっ!」

 瑞波みずは磐雄いわおが声援を送るその間も、梟帥が鹿の脚を狙って低い位置で槍を振り回し、桐眞もすぐに立て直し、今度は跳ね上がって、上から大上段に飛びかかる。二人がかりで一合、二合と打ちこむも、これらもすべていなされ、躱される。梟帥が囮になり、気を取られている隙に桐眞が切り込む。が、傷を与えたとしても、かすり傷程度にしかならない。
 しかし、鹿がわずかに動きを鈍らせたその時、梟帥が手にした槍を地面に突き刺すと、それを軸に全身で跳ね上がった。そして、鹿の背にまたがり、瞬時に顕した剣を首元に振り下ろそうとした。が、その刹那、鹿が激しく暴れ始めた。後ろ脚を大きく蹴り上げ、ツノを振り回した。バネのように、巨体が盲滅法めくらめっぽうに繰り返し跳ね上がる。梟帥はその背から振り落とされまいと、しがみついているだけで精一杯の様子だ。桐眞も、地面に打ちつける蹄のあまりの激しさに避けるばかりで、手が出せないようだった。

 がつ――!

 それは一瞬の事だった。咲保の目の前が急にかげり、見上げるすぐ目の前には、白い毛で覆われた鹿の腹があった。頭上で硬い音が響いた。空気が震え、振動が咲保たちにも伝わった。足元がふらつき、浜路に支えられた。くぐもった父のうめき声があり、はっ、と我に返った時には、すでに鹿は離れた場所にいて、背から梟帥が放り出されたのが見えた。梟帥は宙にいながら槍を取り出し、それを支えに降りることで、地面に叩きつけられるのを防いでいた。
 浅く短い息が続き、咲保は、その時、自分の息が止まっていたことに気づいた。

「あなた」
「ああ、助かった。補ってもらえなんだら、破られるところやった」
「こちらは気にせんと、お任せください」

 いつの間にか、茉莉花を連れて母が渡り廊下にいた。答える父の額には、脂汗が滲んでいる。父が張った結界を、咄嗟とっさに母が補助してくれたおかげで、無事に済んだらしい。

(ああ……)

 母は、父の支援と共に、万が一のことがあれば、浜路と磐雄を連れて『あわい』に逃げられるよう準備しているのだろう。茉莉花もその辺を心得ているようだ。いつでも逃げられるよう、履き物もそのままでいる。
 咲保のいないところでは、家族はいつもこんな危険な所にいるのか、と下唇を噛み締める。尊敬と誇らしさと怖れ、己の無力感や妬みなどありとあらゆる感情が入り混じって湧き出そうになり、咲保は、わぁっ、と泣き叫びたい気持ちになった。だが、今は、そんな感傷に浸っている場合でもない。深く息を吸って吐くと表情を引き締め、しっかりと顔を正面に向けた。
 目で追うのもやっとの速さで、目まぐるしく攻守の入れ替えが行われ、次の瞬間には、二人は地面に転がっていた。見ているだけで痛さが伝わってくる。二人はすぐに起き上がるも、どうするか攻めあぐねているように見えた。梟帥は頭に向かって、トン、トン、トン、とその場で跳ねながら、桐眞は尾に近いところで、じりじりとにじり寄りながら、隙がないかと様子をうかがっていた。二人とも大きな怪我はない様だが、汗と土に汚れ、息も上りかけているようだった。咲保の隣では、浜路が祈るような仕草で、じっ、と事の推移を見守っている。

「お父さま……」

 大丈夫なのか、と思わず父に声をかければ、「危ないから、ここに居なさい」と、硬い声で注意されたその時だ。

 ボォおぉぉぉぉぉっ!!

 牛の声にも似た、鹿の咆哮ほうこうが大音響で響き渡った。慌てて耳を塞ぐが、耳の奥が痛くなるほどの音に、たまらず目をつむり、本能的に前屈みになって身を守った。空気が波のように繰り返し訪れては、咲保の全身を打ちのめした。よろけたところを浜路に支えられ難を逃れるが、ぐらぐらと地面がゆれているようで、脚に力も入らない。周囲を見ると、皆、気遣わしげに咲保に呼びかけているが、耳鳴りの音ばかりで何を言っているのか聞き取れなかった。だが、どうやら、まともに被害を受けたのは、咲保だけのようだ。視線を庭に向ければ、いつの間にか梟帥の槍が炎を纏い、兄は剣を弓に持ち替えていた。
 片肌を脱いだ桐眞は、鹿から素早く間合いを取ると、弓を引き絞り矢を放った。一筋めは胴に当たるが跳ね返される。しかし、続け様に放った二筋めは鹿の首筋に見事に刺さり、初めて受けた傷に鹿は苦しみ暴れ回った。更なる三筋め、四筋めも掠りはするも、容易く跳ね返された。が、踏み荒らす鹿の蹄を合間を縫い、身も軽く避けていた梟帥は、出来た一瞬の隙を逃さず、持ち上がった前脚を、ぎ払うように強かに打った。鹿は堪らず前につんのめり、倒れた。
 その頃になって、やっと咲保の耳鳴りも小さくなり、めまいも治ってきた。父の声が聞こえた。


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