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第二話 鹿肉蔦木喰 ―もみじつたきばむ― (一)

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<一>


 ふ、と障子に映ったちいさな影に気づき、咲保さくほは隙間を空けた。すると、するりと流れるように、一匹の猫が部屋にすべり込んでくる。そして、我が物顔で最前まで咲保が座っていた文机の前の座布団に乗ると、そのままくるりと回って落ち着いてしまった。

「みぃ、また寝にきたの?」

 みぃは、軒下にいた迷い猫だった子猫を弟妹きょうだいたちが保護して以来、木栖きすみ家で飼われるようになった三毛猫だ。普段は母屋おもやにいるが、弟や妹がかまい過ぎるのだろう。よく咲保のいる離れに眠りに来る。愛玩あいがんされるのも嫌いではなさそうだが、『寝子』とはよく言ったもので、狩りに備えて静かに眠る長い時間が必要なのだろう。みぃは、鼠捕りの腕もなかなか大したものらしく、みぃが来てから木栖家は鼠知らずだ。
 目を閉じたみぃの背をひと撫ですると、座布団に残った咲保の温もりに張り付くように、身体を丸くして眠ってしまった。
 咲保は、そのままみぃに席を譲ることした。文は書きかけだが、急ぐ内容ではない。

(そろそろお炬燵こたの季節よね……)

 時が過ぎるのは早いもので、今日から十一月に入り、すっかり朝晩もひえるようになって、外に出るのにも、羽織物が必要な季節だ。毎朝使う顔を洗う水も、触れるのも億劫おっくうになるほど冷たくなった。火鉢も欲しい。しかし、それらを出す日は、の月の亥の日と決まっている。

(あ、亥の子餅!)

 その夜に食べる餅は、毎年の大事な行事にして咲保の楽しみでもある。食べることから生命力を頂き、厄除やくよけの力も得る。使われる素材にも、それぞれ縁起かつぎの理由があったりする。

(今年の亥の日っていつだったかしら?)

 新政府の発足ほっそく以降、新暦に変わったのはいいが、神事などの行事は旧暦で行う習わしで、かなり日付に食い違いがあり、いちいち調べなければならないのが不便だ。そういう時は、母に聞くのが一番てっとり早い。
 そうと決まれば、善は急げ――咲保は、母がいるだろう母屋に向かった。

 
 新政府の目論見もくろみによって不意打ちに近い状態で、みかどのお住まいが輝陽きょうの都から登宇京とうきょうへとお移りになられることで、遷都せんとが行われた。それに従い、華族の地位にいた元公家の屋敷も必然的に、登宇京への転居を余儀よぎなくされた。そのため、 各家々は、登宇京に家格に応じた新たな屋敷を建てることになったわけだが、当時を知る者に聞けば、たいそうな騒動だったらしい。なにせ、すでに八百八町はっぴゃくやちょうといわれていた地に空いている手頃な土地などほとんどなく、撤退する士族しぞくから買い受けるにしてもふっかけられるのは当然で、それでも争奪戦になったというのだから、どれだけてんやわんやであったか想像がつく。それだけに、伯爵とは名ばかりで大して予算もない木栖家のような家は、多少、不便でも郊外の地に居を構えるしかなかったという経緯がある。
 そして、いざ屋敷を構えるにあたっては、熾盛しじょう侯爵家のような洋館にする家が多かった。人々へ新たな時代への印象を与えるとか、帝の巡行に伴い、宿泊されることもあるため、それなりの格が必要だったとか色々理由があったようだが、なにせ洋館を建てられる職人など滅多めったにいないのだから、そこでもひと騒動あったと聞く。そんなこんなで、一部、公家にとっては、迷惑この上ない遷都だったわけだ。
 それらを経て、田畑の広がる、昔の栄扉えど幕府十里四方を越えた農村地に落ち着いた木栖家は、昔ながらの和風の屋敷である。両親と子ども五人――いちばん上の姉が嫁いだため今は四人だが、一家六名と使用人の二名が暮らすには充分に広い家だ。ではあるが、これでも他家に比べて小ぶりだそうだ。それら全てが、『母の希望だったから』。
 咲保の母、寿子としこの実家は、木栖本家の遠縁にあたる家であるが、冠位も低い、名ばかりの下級の公家で、武家が治める時代には、長らく庶民と変わらない、あるいは、それ以下の貧しい暮らしに甘んじていたそうだ。その頃を引きずって、今でも一部を除く旧公家より、士族の方がよほど裕福だ。母も娘時代には家計を助けるため、土産物用の和歌短冊や歌留多かるたの文字書きの内職や、武家や豪商の娘に教養を仕込むための家庭教師などを引き受けたりもしたらしい。教養だけはある公家の出の娘は、そういうところで重宝がられたそうだ。

「誰が教えたんか知らんけれど、歌舞伎役者の間で闘茶とうちゃ流行はやってるって聞いた日には、びっくりしましたわ」

 闘茶とは、もとは公家の間で行われた、数ある茶の産地を飲み当てるたしなみを兼ねた遊戯だ。母が茶の味に関して滅法めっぽううるさいのは、そのせいかとも思う。貧しくとも、そういったところに金をかけるのが、公家の家というものらしい。そんな風な暮らし振りだから、当然、住まう家も質素を通り越した有様で、維持もままならなかったそうだ。そのせいか、装飾の多い豪奢ごうしゃな洋館に暮らすなど、

「そない立派なとこおそれおおて、うちよぉ暮らしません」

 だ、そうだ。

「美しゅうおますけれど、ゴテゴテしてて、なんやお掃除するのも大変そうやないですか。神さんかて、埃が溜まるような家におまつりされたない思います」

 というわけで、今の屋敷となった。

「人間、なるべく節約しまつして、多くを持ち過ぎんと暮らしていくんが一番どす。普段から余分なもんを持たんと身綺麗にしていれば、困った時には誰かが、必ず助けてくらはります。けれど、ケチ臭ぁてもあきまへんえ。教養でも人でもなんでも、見えんところにお金かけてこそ、一生、残るもんがあるて、うちはそう思いますわ」

 公家というより商家の出のようなことも言う。そんな母が切り盛りする木栖家は、『質素倹約』を心がけた生活を送っている。日々、近隣の農家や職人などの人々との交流も多く、出入りも多い。母の気さくさもあって、『多分、地主かなんかの素封家そほうか』ぐらいの認識で、華族という身分であることを知らない者もいるようだ。

「お母さま、咲保です」

 母がいるという部屋に襖越しに声をかければ、「お入り」と応えを聞いて、中に入る。と、母は家計簿をつけていたようだ。木綿の着物に脇に算盤を置き、何やら書き込んでいる様は、商人の奥方だと言っても通用するだろう。ただ、ふ、とした時の所作の美しさに、目が惹かれる。袂を押さえて筆を置くだけの、流れるような仕草などに気品を感じる。

「お仕事中、お邪魔してごめんなさい」
「かましません。なんでした?」
「お母さまにお聞きしたいことがあって……今年の炉開きの日って、いつだったかしらと思って」

 そう尋ねると、あら、と母も初めて思い出したようだ。

「しもた、うっかりしてたわ。えぇ、いつやったかいな。炭は早めに注文してたんやけれど」
「もう、亥の月に入ったと思うんですけれど」
「えぇ、高島暦、高島暦、どこにしもうたんやろ……暦が新しゅうなってから、いろいろ頭がごっちゃになって困りますわ。ああ、あった! 亥の月亥の日……あら、霜月の六日。次の日曜日て、やあ、もう来週やないですの」
「六日……あと六日ですか」
「一度、蔵のぞいて、ちゃんと揃っているか、見とかなあきませんなぁ。去年みたいに、火箸の一本だけ足らんとか困るし」
「あと、亥の子餅の準備も。材料を揃えないと」
「ああ、それもあったわ。昨年はどないしてたかな……」

 咲保の母は、忙しなく手元の帳面をばらばらと捲った。

「ああ、あんたの方の分と、ご近所さんに配るんも含めて百二十個用意してましたわ。確か、それで少し余ったくらいやから、今年も同じ数でよろしおますやろ。咲保、今年も栗はお任せしてよろしいか?」
「たぶん大丈夫だと思いますけれど、まるおに聞いてみます」
「多なる分には、かましません」
「柿は?」
「柿はご近所さんにお頼みすれば、わけてもらえますやろ。その辺、よおけなってますし。それは、こちらでお願いしときます。あとは日持ちする材料ばかりやし、在庫見て、買い足せばええやろうし……せや、ちょうどええわ、咲保」
「はい」
「今年の炉開きの用意は、あんたが仕切りなはれ」
「はい?」
「あんたもそろそろ、そういうことも出来るようにならんとあきませんやろ。障りもあるし、先々どないするかは、あんたも決められるもんやおまへんやろけど、うちも、いつかはおらんようになります。将来、お家のことは桐眞のお嫁はんにお任せするにしても、すぐになんでも出来るもんやあらしませんしな。あんたも今の内、覚えて出来るようになっておかんと、あとあと困ることになりますえ」
「……はい」
「そない顔せんと。これまでも手伝いしながら自然と覚えたこともありますやろ。やってみれば、案外、簡単やったって思うかもしれまへんえ? まだ日にちもありますし、わからんことあれば、なんでも教えますしな。大丈夫どす。あんたならできます」
「……はい」
「ほな、頼みましたえ」
「はい……失礼します」

 今の咲保の気持ちは、『えらいこっちゃ』、これの一言に尽きる。確かに、毎年、支度の手伝いもしながら、それとなく見て覚えていることもあるが、なるべく大人数のいるところは避けてきたこともあって、ところどころ抜けているところがある。すべての流れを把握しているわけではなく、母はああは言ったものの、不安でしかない。家内の行事だから、失敗したところでさして叱られはしないだろうし、大事にもならないだろうが、多かれ少なかれ母をがっかりさせるだろう。それも、嫌だ。ただでさえ、咲保は人一倍、心配や苦労をかけている。

(出来るのかしら……?)

 我が事ながら、怪しいとしか言えない。まず、何から手をつけて良いものかさえわからない。だが、母の言うことは正しいし、咲保のことを思ってそうしてくれているのもわかる。しかし、やるしかないとわかっていても、気は進まない。
 肩を落とした咲保は、つい、渡り廊下で立ち止まった。足元に、風に吹き飛ばされてきたのだろう木の葉が落ちていた。イチョウの葉は鮮やかな黄色に染まっている。どこから来たのだろうと視線を巡らせば、気づけば、土壁の上を這う夏蔦もすっかりと色付いている。一枚の葉の中で緑をわずかに残し、橙から赤に変わっている様は、なんとも言えず風情があって、美しい。
 ぼうっと、庭を眺めると、小さな赤い鳥居が目に入った。一族の氏神を祀る祠だ。

(どうか上手にできますように……)

 咲保は、こっそり手を合わせた。


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