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備前のぐい呑

今回も母方の祖父、多吉じいさんから聞いた彼の若い頃のお話です。

昭和10年代、前回お話した「タヌキの婿入り」から2年後の9月半ばのことだったと言います。
その日も山向こうの備前焼の窯元まで、電気メーターの検針と料金の集金に行ったときのことでした。

朝、家を出て、窯元に着いたのは午前9時半ごろでした。
折しも窯元では窯出しの真っ最中だったそうです。
階段状になった長い登り窯の中から、焼き上がったばかりの備前焼が次々と運び出され、灰を払ったあとに、大まかに焼き上がりの良し悪しを見て、母屋の庭へと運び出されます。

大小の水甕や花瓶類、茶碗や水指などの茶道具、徳利や緒口(ちょこ)・ぐい呑などの酒器などが、すでに庭一面に所狭しと並べられています。
窯元の当主や陶工たちは、その一つひとつを手にとって焼き上がりを入念に確認してランク分けしていくのです。

いつもは当主や陶工たちと世間話をして長居をする多吉青年でしたが、この日ばかりはのんびりと話してなどしていられない雰囲気でした。
早々に検針と集金を済ませて帰ろうとすると、
「ああ、多吉さんちょっと…」と当主に呼び止められました。

彼は縁側に座って酒器類の選別をしている最中でした。
「今日はこんな具合じゃけぇ、ろくに話もできんですまんのう。
来月には、またゆっくり茶でも飲みながら話をしょうやぁ。
今日は毎月来てくりょううるお礼に、これ、お土産じゃ」
彼はそう言ってかたわらにより分けられたぐい呑みの中から、無造作に二つ取り上げて新聞紙に包み始めたのです。

ひとつは側面の周囲をへらで面取りした、特に目立つような窯変(ようへん)はありませんが、大振りで荒々しい造りの焦げ茶色のもの。
もうひとつは対照的に、薄茶色の素地に巻かれた藁が緋色に変化した緋襷と呼ばれる窯変が美しい、小さな湯呑のような形をした、薄手の女性的なものでした。

「仕事じゃけぇ」と遠慮する多吉青年に、
「ええんじゃ、気にせられな。これからは酒の美味しゅうなる時期じゃ、あんた酒好きなんじゃから、これで一杯やったらええわ」
そう言ってその新聞紙の包みを手渡してくれました。
多吉青年は、ありがたくその包みを背中のナップサックに入れて、何度も礼を言って帰路についたのだそうです。

帰りの山道。
峠を越えたあたりに少し開けた場所がありました。
用事が早くすんだ天気の良い日には、そこで一服したり持参した昼食の握り飯を食べるのを、多吉青年は楽しみにしていたそうです。

その日は検針が早く終わり、思いがけないお土産までもらったので、彼は上機嫌で、その場所へと差し掛かったのでした。
すると、いつもは人気のないその場所に、先客がいたのだそうです。

それは見たところ70代くらいの老人でした。
近在ではついぞ見かけない顔でしたが、山向うの里の住人だろうと思ったそうです。
ごく普通の農作業をするような格好をして、広場の端の方にある石の上に腰をおろしています。
足元には徳利が置かれ、手には小ぶりな飯茶碗を持っていました。

〈昼間からええご身分じゃのう〉
そう思いながら多吉青年は、軽く会釈をして、老人から少し離れた場所に座り込み、弁当を広げたのでした。

知らん顔をしていようと思っていましたが、根が酒好きな彼のこと、ちらりちらりと老人の方を盗み見ずにはいられませんでした。
老人は美味しそうに茶碗酒を呑んでいます。
そうやって、ちらちらと盗み見を続けていた何度目かのことと、
「どうじゃな、一杯」と足元の徳利を持ち上げながら、老人がふいに声をかけてきました。

一瞬ビクリとしましたが、酒好きな性(しょう)の卑しさでしょうか、多吉青年は釣られるように老人のそばに寄って行ったのだそうです。
「どうじゃな、一杯…」と、老人は多吉青年の顔を見上げながら再びそう言って手にした茶碗を持ち上げて見せるのでした。

近くで見るとその茶碗の縁は欠け、うすく罅(ひび)も入っているようでした。
それを見て、彼は瞬時に以前でくわした「タヌキの婿入り」のことを思い出しました。
〈いけん、いけん。こりゃーまたタヌキかキツネにだまさりょーるにちげぇねえ〉
そう思って後ずさりしようとしましたが、老人の欠けた茶碗から漂うあまい酒の香りが鼻について、その場を離れられません。

多吉青年はそれとなく老人の背後をのぞきこみながら、
〈見たところしっぽはねぇようじゃ。タヌキやキツネに化かされることもそう何回もねぇじゃろうし…俺の気にしすぎかなぁ。ひと仕事追えたあとの、特に昼間の酒は美味めぇしなぁ…〉などと、思いはどんどんと〈一杯だけなら〉という心持ちへと傾いていくのでした。

〈しかし、あのこきたねぇ茶碗を借りて飲むのもなぁ〉
そう思った時、先程窯元でもらったぐい呑みのことが思い浮かびました。
「それじゃあ、お言葉に甘えて一杯だけ」
彼はそう言いながら、ナップサックからぐい呑を取り出し、無骨な方を自分に、緋襷の方を老人に手渡しました。
「さっき窯元からもろうてきたばかりのもんです。失礼じゃけど、どうぞこれでのんでみてつかーさい」と言うと、老人はぐい呑をしばらく撫で回したあと、頭の上に推しいただいてから、多吉青年のぐい呑みになみなみと酒をつぎ、自らの器にも注いだのでした。

一口飲んでみると、酒はこれまでに味わったことのない美味しさでした。
それからはもちろん「一杯だけ」で終わるはずもなく、弁当のたくあんや梅干しをつまみに、徳利が空になるまで飲み続けたそうです。
気づけば日はだいぶ傾いており、多吉青年はお礼を言い、緋襷のぐい呑を老人の手元に残して、山を降りたのだそうです。

翌月、再び検針のために山道を登り、あの開けた場所にさしかかったときのことでした。
枯れ色が目立つ草むらのほとり、あの老人がすわっていた石のそばに、ふだんはみかけない色のちいさな塊が転がっています。
近づいてみるとそれは先月、老人にあげたぐい呑でした。
それと同時に、座っていた石の側面にうすく文字の彫り跡があることに気が付きました。
薄すぎて文字は読めませんでしたが、おそらくは誰かの墓か、道祖神かなにかの石碑だったのでしょう。

先月出会ったあの老人が実在の人物であったのか、あるいはタヌキや幽霊、神様の類であったのか…多吉青年はしばらく考え込んでいましたが、やがて苦笑いを浮かべ、ぐい呑の土を払いはじめました。
そして、持っていたお茶を注いで石の前において、手を合わせたのでした。

〈もう幽霊でも神様でも誰でもですええわ。今日はこれしかねぇけど、がまんしてつかぁさい。来月からは酒ぇ持ってきますけぇ…〉
そう心で念じて峠へと向かったそうです。
それ以降、毎月、多吉青年が兵隊にとられるまで、この習慣は続いたのだという、そんなお話でした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
テーマ回「山に纏わる不思議な話」
2023.9.16.

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