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91歳で亡くなった祖父のこと、あるいは家系図を紐解く欲望について


祖父が亡くなってから、父方の家系のことを改めて色々調べている。
叔母が撮ってくれた、生前の祖父が個人史を話している動画を観たり、最近出てきた曽祖母の日記を読んだり、曽祖父の本を読んだり。

戦争の時に何をしていたのかとか、昔の生活ぶりや歴史を個人の人生を背景にして知ることができるのが単純に興味深いし、自分がこの世に生まれるきっかけとなった人たちがどう生きたのかを知りたいという欲求がある。

先祖がいかに生きたのか、いかに面白い人だったのかを知り、その結果として自分が生きていることを感じ、センチメンタルな気持ちになる。
それは何かとても気持ち悪い欲望とも結びついているのだろうな、と思うのだけど、どうなんだろう。
血縁に自らのアイデンティティの拠り所を感じてしまうのは色々と問題があるのだろうか(父系と母系どちらもに対してであっても?)。

家系図がナショナリズム的な文脈で大きな物語と結び付けられてしまうのが不適切なだけで、ファミリーヒストリーという小さな物語への愛着それ自体は気持ち悪くないのだろうか?
血縁関係ってなんなんだろう。


改めて家族に話を聞いていると、父方の家系は、好きなことを追求する人が多かったのだな〜と感じる。
曽祖父は植物学者で、曽祖母は藝大を出てピアノの先生をしていた。
祖父は小さい頃から自然が好きで、農業系雑誌の編集者をしながら、趣味の蝶の採集をずっと続けていて、何度も台湾に蝶を捕まえにいっていたらしい。私が小さい頃は祖父母の家中に蝶の標本が飾ってあった。今は随分博物館に寄贈してしまったみたいだが。
副業で相撲雑誌のライターもしていて、「戦後新入幕力士物語」という本を出版している。

まあ裕福だったからできたんだろうな…とは思うが、叔母も父も好きなことにはのめりこむタイプだし、そういうのを知ると、自分も愛するものにしっかりと情熱を注ぎ続けなくてはなと鼓舞されたりする。

曽祖母の父は、いわゆる田端文士村で芥川龍之介をはじめとする文学者のパトロンだったそうで、そういったところにも本好きな自分としてはキュンときてしまう。(というか、先祖こんな感じだったのに今の佐竹家の先細り具合たるや一体…)

そういう、彼らと自分とのつながりを確認したいという欲望に居心地の悪さを感じつつ、それでもキュンとしてしまうのだよね〜

国や性別や民族や共同体や、全ての文脈から解き放たれて「自由な個人」となった私たちは、その寄る辺なさに不安になって、どこかに自分の根っこを確認したいと思ってしまうものなのかもしれない。自分がどこから来たのか、なぜ今ここにこのように在るのか。自分の物語が、自分が生まれてから死ぬまでだと考えるととてもやりきれない。家系図を紐解くのは、自分の物語を過去にまで拡張したいという欲望に基づいている。


私は未来よりも過去に関心がある。かつてあったものがすべて無かったことになるのが恐ろしい、という感覚がある。それもまた私に彼らの日記を捲らせる理由になる。

祖父は今月、91歳で亡くなった。糖尿病で数年前から透析治療を受けていたが、去年あたりから体調を崩し、最期には血圧の低下で透析が受けられなくなってそのまま息を引き取った。私は亡くなる2週間前に会いにいったけど、寝たきりでも最期まで頭ははっきりしていて、思い出話をしたり、祖母をからかって弱々しい声で軽口を叩いたりしていた。

人が亡くなるということは、その人の身体のなかにしまわれている記憶や感覚がこの世からなくなってしまうことだと思う。時折脳裏によみがえる子どもの頃の記憶、朝起きる時夜寝る時の感覚、握りしめ続けてきた秘密、弱っていく身体の痛みなどが、誰にも知られないままなくなってしまう。

だからせめて、その失われた感覚を自分のなかに復元しておきたいと思う。
日記を読んだり蔵書を眺めたり、祖父が好きだったゴジラ映画を観たり、こうして文章を書いてみたり。そうやって過去を何かしらのかたちで遺すことが、自分という存在に対する救い、あるいは言い訳のように機能するのだ。

祖父と私と妹(なぜか顔隠されてる)



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