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問いつづける物語-『存在の耐えられない軽さ』


読み終わってから始まる物語がある。


私はミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という小説が超好きで、大学生のときタイトルがかっこよすぎるという理由で読み始めてから、本当に何回も何回も読み返している。


初めて読んだときは正直よくわからなくて、でもわからないけどめちゃくちゃかっこいい文章に衝撃を受けた。そのわからなさが強烈に心に残っていた。例えばこの小説では題名にもある通り、〈重さと軽さ〉という主題が繰り返し語られるのだけど、軽さっていったい何なんだろうとか、あの場面でいきなりスターリンの話出てきたけどどういう意味なんだろう…とか。


そういうもやもやをなんとなく心に留めておくと、
ある一節や概念が、ふっと立ち現れてくる瞬間がやってくる。

あ、もしかしたらこういうことかも
だから、今の私の悩みって、〈軽さと重さ〉で考えるとこういうことなのかも、と。

その度に本棚から抜き取ってページを捲ってみる。そうすると今までと少し違う読みができる。暗がりに置かれた彫刻に光が差し込んで、今まで見えてなかった部分に当たって、こんな形だったんだって気づくように。
物語全編を通して様々な意味合いで語られる〈重さと軽さ〉という旋律が、私の生においても問いとして響き続ける。様々な出来事が〈重さと軽さ〉によって捉え直され、その都度響きが少しずつ変容する。


私の生を通して作品の解釈が少しずつ深まってゆき、
私の生もまた、その作品によって解釈を与えられてゆく。


一方向の読解ではない、長い生を通した、双方向の繰り返し。それこそが読むという行為なんじゃないか。
そんな創作物に出会えることは滅多にない幸運だけど、でもこの繰り返しが尽きない限りは、それだけでも生きていられる気がする。
だから自分にとって本当に切実な作品とは、読み終わったあとに答えではなく問いを置いていくものなのだ。生きるうえで我々に必要なのは問いのほうだから。

ちなみに、この繰り返しに少し近いイメージが『存在の耐えられない軽さ』のなかに書かれている。

山高帽はサビナの人生そのものの作曲のモチーフとなった。このモチーフは繰り返しもどってきて、そのたびに違う意味を持っていた。それらの意味のすべてが、水が川床を流れるように山高帽を通って流れた。それは「二度と同じ川に足を踏み入れることはけっしてない!」というヘラクレイトスの川床であったと、私にはいうことができる。山高帽は川床で、サビナはそこに毎回違う川、違う意味を持つ(セマンティックな)川が流れるのを見た。同じ対象が毎回違う意味を呼びおこすが、しかしその意味と共に(山びこや、数々の山びこの行進のように)あらゆる過去の意味がひびきわたった。新しい経験の一つ一つがより豊かな共鳴となって響いたのである。


私にとっての「山高帽」とはクンデラ作品そのものだ。

私の人生の川床には『存在の耐えられない軽さ』があり、そこに毎回違う意味を持つ川が流れてゆくのである。


ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳、集英社文庫、1998/11/25)

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