7月11日(お向かいさん)
長女の下校時間が早かったのをうっかり忘れ、一時間半遅れて帰宅。扉には張り紙。
「むかいの柴田です。長女ちゃんを預かっています。」
やってしまった。
すぐに向かいの家へ。
幸いなことに次女と歩いているといつも優しく声をかけてくれる柴田さんは、熱中症を心配して長女にアイスを食べさせ、涼しいクーラーの部屋で過ごさせてくれていた。すぐに家から出てきてくれた柴田さんは、
「ごめんねー!もっと早く気付いてあげればよかった!」
帰りが遅くなったことを少し咎められるのでは、と思っていまた私は、力が抜けた。とにかく親身になって長女を預かってくれていたことが伝わってきた。
わたしは、子どもの頃からこの地域に住んでいて、今住んでいる家のある場所にはもともと祖父母が住んでいた。
だから、お向かいさんにとっては、うちとはずいぶんと長い付き合いがある。
近年ではそういった地域のつながりは面倒なものとして忌避される傾向がある。自治会の加入率も年々落ちている。
しかし、我が家にとってはこうした地域のつながりがあるおかげで、子どもたちは自由でありながら守られた存在でいられる。
はたしてそれは、学童や児童クラブ、習い事の中で保障されるのは難しい。
こんなことを考えていたら、ふと、「こらだ」
という言葉を思い出された。こころとからだが区別されていない状態を中井久夫が例えた言葉だ。
近代社会では、こころとからだを分けた方が便利だ。「こらだ」のままでいることはむずかしい。
一方、地域は、社会のようでもあり家庭のようでもある。つまり「しゃてい」だ。こらだと同様に、地域は社会と家庭に分かれていき、少しずつ損なわれて行った。
でも、こらだや地域が損なわれたのは、長い人類史の中では随分最近のことだ。だから、実際のところ、私たちは、まだ、「こころとからだ」や「社会と家庭」に慣れていない。
いや、むしろ、それらは単に形式的に作られたものであるとも言える。私たちの生物学的な特性から考えると、それは少し無理があるのかもしれない。
そんなことを考えている手前、わたしは、長女に課していた
「アイスは一日一個」
をあっさりと反故にし、もう一つ、いつものおやつアイスを食べて良いことを告げた。
「アイスと決まり」はあっさりと崩れ、「あまり」となる。
そう、私たちに必要なのは、
「余り」
だ。地域とは、「余り」を作り出す場所なのだ。
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