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「誰か」や「何か」が私を治してくれるわけではない

治療の道のり(⑤マインドフルネス編)の中で、「自分を治してくれる鍵は外部(病院・薬・医者・環境・周囲の人など)にあって、自分の中にはない」と思いこんでいた話を少し書きました。この思い込みが解けたことって、私が病気と付き合っていく中で本当に大きな気づきだったと思います。「鍵は自分の中にある」と理解することは、言い換えれば自分の現状が自分の責任だと認めること。だからその過程には大きな抵抗があったけど、私は今の考え方の方がずっと楽になれました。というわけで、私が気づいたことをまとめておきたいと思います。


私は有難いことに、ずっと病気とは無縁で生きてきました。そんな私にとって「病気」というと、手術して治すとか、投薬して治すとか、カウンセリングされて治すとか…もちろん当人の気力はいるだろうけど、「治す人は医者」だというイメージがありました。あくまで患者は受け身で治療してもらう側の立場。インフルエンザに罹ったら病院でタミフルを処方してもらわなければ治らない、みたいな。

だから私が自律神経失調症を発症した当初も同じように、「この病気を治せる病院や薬を見つけなければならない」という意識が強くありました。症状が良くならないということは、イコール正しい病院や薬を私がまだ見つけられていないということ。それは情報が足りないからだと思い、本を読んだり、知人に聞いて回ったり、ネットで調べたり、色々な病院を渡り歩いたりしながら、その答えを探そうと必死でした。

それでも私の病気を一発で消し去ってくれる魔法のような病院や薬を見つけることは出来ませんでした。それどころか、医者によって私の病名すら様々でした。「この病気ならこの治療」と答えが決まっているとばかり思っていたのに、この病気の原因は何かすら現代医学では定まらないのだと知り、本当に絶望的な気持ちになりました。この頃の気持ちは、「こんなに苦しいのに身体に異常がないなんて絶対やぶ医者だし、医学がこんなんならいつまでたっても治らないじゃん。薬を早く開発してよ~」といった感じ。(笑)私を治してくれない病院・薬・医者を恨んでいました。

やはり原因はストレスだとばかり診断されるので、ストレスの原因を排除すれば治るかもしれないと思い、今度は「自分のストレスを作り出しているもの」に意識が向くようになりました。その当時私が最もストレスに感じていたことは、病気の中一人で暮らす不安感。段々、その不安感を作り出している周囲の人や環境のせいで私は治らないのだと思うようになっていきました。

例えば、夜間や休日に病院が閉まっていることが、私にとってはものすごい恐怖でした。その時間に具合が悪くなってしまったら、救急病院しか選択肢がなくなってしまうからです。「病院が土日も開いててくれたら私の不安感は減って、ストレスがなくなって病気が治るのに」と本気で思っていました。それから、「家族や友人が近所に住んでくれてさえいれば、いつでも頼れる安心感で治るのに」とか、「もっと頻繁に看病しに来てくれたら良くなるのに」とか、「病院の先生が電話番号を教えてくれたら治るのに」とか(笑) これ全部、本気で思ってるのが今考えると怖いです。嫌われたくない気持ちが引き金となってもちろん実際に言葉にはしなかったものの、治らない苛立ちが周囲の人や環境に向いていってしまったんです。

そうすると今度は、「この人は私に治ってほしいと思っているはずなのに、なんで○○してくれないんだろう」という思考が沸き始めました。「頻繁に看病してくれたら私が救われること分かってるはずなのに、なんでたまにしか来てくれないの?面倒なんだろうな」とか、「家族なら普通ずっとそばにいてあげようとするよね?私って愛されてないのかな」とか。誰かや何かのせいにするたびに、自分がどんどん傷ついていく。家族や友人などがあくまでも他人であることを頭では分かっているのに、「私を助けようと割いてくれる時間や手間の多さ=私への愛情の大きさ」と思ってしまって。しまいには、家族が食事に出かけたり友人が旅行したりして私以外の何かを優先させると深い悲しみに襲われ、「彼らが私を治すのに非協力的だから治らないんだ」とさえ感じるようになりました。(当然、家族や友人といえども彼らにそんな義理はないですよね)

この時期は本当に苦しかったです。ただでさえ身体が毎日キツいのに、周りの人から愛されていないという妄想を自分で勝手に作り上げてダブルパンチを食らっていました。病院も、医者も、家族も、友人も、誰一人としてすべてをかけて私を治そうとはしてくれない…と。そりゃそうです、私以外は誰も当事者じゃないのですから。(笑)彼らは出来る範囲の中で私を助けようとしてくれているのに、治りたいと焦る気持ちが暴走していました。


一見、こうして外部に原因を見出して、自分が治る答えを外部に求めることは、とっても楽なように思えます。自分のせいだなんて誰も考えたくないし、受け身で治療を受けて治るのが一番楽に決まってる。責任から逃れられるから。実際、うつ状態にあるときはすべての原因を(もっと浅いレベルでですが)自分のせいにしてしまって、どんどんうつを深めてしまうこともありました。だから、「誰か・何かのせいで私は具合が悪いんだ!私は悪くない!私が治らないのは私のせいじゃない!」って時期はあっても良いと思ってて、そう考えることで生きていられる時間も確かにあります。

だけど、自分以外のすべての人・物は「私の力では変えることができないもの」なんですよね。私がどんなに願っても病院は休日開業してくれないし、自律神経を整える薬は開発されないし、家族や友人が彼らの時間をどう使うかは彼らが決めること。もちろん家族に「私を大事に思うならもっと私を心配して!」と言ってみたり、自分を大切にしない友達に不満をぶつけることは出来ます。けど、自分の要望を伝えることと、相手を変えようとすることは違う。私の場合、この時期は病気を盾にして後者をやってしまいそうでした。

私の病気の原因や治る鍵を「自分の力ではどうすることもできない外部」に見出してしまうことは、病気の主導権を自分が握っていられないということと同じで、それって実は本当に苦しい。「誰かや何かが変わってくれるまで自分は治らない」と呪いをかけてしまうことに等しいです。そんなの先が見えなすぎて、一生このままかもしれない。

そんなことに気づき始めて、自分の手が届く範囲に治る鍵があるんじゃないかと考え方を転換したんです。私を治せるのは世界中どこを探しても私自身だけなんじゃないかと思って、外に答えを捜し歩くのをやめ、困った時は自分の身体に聞いてみて、自分を自分自身の主治医にする作戦を始めました。誰かや何かのせいにしそうになった時は、次のように自分に問うてみました。

例えば病院が開いてない夜中や休日が不安な話でいえば、『どうして病院が開いてれば安心するんだっけ?』「先生に話を聞いてもらえるのと、薬を処方されて楽になるから」『じゃあ辛い時は先生に話を聞いてもらってるつもりでノートにメモしてみることにしよう(またこの方法も記事にしたいです)、薬は予め多めに処方してもらうようにしよう』とか。看病にもっと来てもらいたい話でいえば、『なんで看病に来てもらうと楽なんだっけ』「家事をするのが辛いのと、心細くならないから」『じゃあ家事は辛い時にやらなくていいように、すぐ食べられる食品を常備したり工夫しよう。心細いのはなんで?』「もし今倒れても一人だったら誰も気づいてくれないのが怖いから」『誰かが気づいてくれたらどうなるの?』「救急車を呼んでくれる」『じゃあ自分でも緊急時にそれができるようにiPhoneの設定をしとこう』…みたいな。些細なことなんだけど、あくまでも主体は私だよっていう考え方に変えていきました。

またマインドフルネスとの出会いも、自分で自分を治すという発想の大きなきっかけになりました。「薬や他人の力ではなく自分の思考だけで発作が治まるんだ!」という発見は、一層この考え方を後押ししてくれました。

ちなみにこれは「病院や薬・家族や友人などに頼らずに治療する」という意味ではなくて、頼ったほうがいいと私の中の主治医が判断すれば頼ります。それも含めて誰かに決めてもらうのではなく、私が判断するということです。「早く看病しに来てくれないかな~」じゃなく、「今日は辛いから助けに来てほしい」と自分から頼む。もし無理だと言われても、それは「私を助けること」ではなく「今日」が無理なだけなんだと理解して、他の人に頼んでみる。病院でも「画期的な治療方法を提案してくれないかな~」じゃなく、「この症状が辛いから、これに効く薬を処方してほしい」とか「症状の記録をつけてたらこんなことを発見したから、こういう治療のアプローチはどうだろう」とか、私の中の主治医が先生とお話する感じ。もちろん私よりも専門知識がある先生のアドバイスはしっかり聞くけれど、私の症状や要望を完璧に理解できているのはやっぱり私以外にはいないから。何の薬を飲むべきか、何を食べて何を食べないべきかといったことから、どの治療を受けるべきかに至るまですべてを、自分の身体の声を最優先で聞いてみるようにしました。


こんな風に転換してから、私は本当に楽になりました。発症の原因についても「あの時イギリスで○○が△△だったらこんなことにはならなかったのに」と色々思っていましたが、今は「生き方を変化させるきっかけとして、私が自分で病気という形を選んだんだろうな」と思っています(これは「私のせい」とは違います)。

さらに私は、あえて確実な原因や治療法が分かっていないこの病気になったのは、まさに「すべての答えは自分の中にあるんだよ」ってことを学ぶためだったんじゃないかな、とも思っています。私は病気に限らず外部に答えを探しがちな人間でした。自分で考える前に調べたり人に聞いたりすることがとても多くて、それで素早く要領よく問題を解決してはするすると上手くやってきたタイプ。自分の内部に問うて、答えのない問題を自分で延々と考えることは苦手だったんです。だから「決まった答えがない」というこの病気の性質が本当にストレスだったけど、「答えが外部にある」という思い込みこそがこの病気で改められた部分だなぁ、と今では思っています。

誰かや何かに治してもらうのを待つんじゃなくて、自分で治そう。と意識を変えたからと言って、治療方法が大きく変わるとか、劇的に体調が良くなるとか、そういうことではないです。(笑)でも面白いもので、私はこう思うようになってから、この闘病生活を絶望的に思う回数が本当に減りました。もちろん、常に自分で自分を支えていくのは時に疲れることもありますが、病気の主導権を自分で握るということはストレスフリーだなあと感じます。自分の中に主治医がいる感覚は、本当に心強いですしね。

そして、巷に溢れる沢山の情報に振り回されることもなくなりました。例えば3食きっちり食べなきゃ自律神経に悪いとか、早寝しないとダメだとか、冷たいものを飲むと良くないとか…(これはあくまで私の場合ですが)私の中の主治医は「気にすんな、巷の情報じゃなくてお前の身体に聞け」と言ってくれているのでスルーです。(笑) 情報ではなく自分の身体に聞けるようになってからは、確実に体調が変わりましたね。「あんまり○○しないほうがいい」と言われていることをやりたくなったら、私は身体の言うことの方を信じることにしています。自分に聞いてみて、良さそうだと思う情報は取り入れる。とってもシンプルで、確実な方法じゃないかなと思っています:)

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