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凡人なりの生き方

私は凡人である。スポーツも勉強もその他のことも、何一つ秀でたものなどなく、人様どころか自分自身からも高く評価できたような好きなこともなく生きていた時間が長い。

黒い色がその少量で他の色に大きな影響を与えるがごとく、劣等感が何事にも影響を及ぼしていた結果であろう。

勉強、そもそもの知能指数、交友関係、学校からの評価、大人たちとの付き合い、習い事の野球、楽器のスキル、そもそもの趣味の幅、自分らしくという生き方など、何事も兄に敵うものがなかった。

気づいた時には劣等感というものが私の中に強く根を張っており、私の前向きな気持ちを養分に育っていた。

「1番じゃないと意味が無い」

そう言われ育った兄がいる。そして、
そう言われ育った兄を見て育った私がいた。

兄に勝てないことで私は劣等感を育てることとなり、次第に私は私を「中途半端」な人間だと思い込むようになっていった。

兄もそのことは見て感じていたようであり、
地域柄選べる高校が少なかったため兄と同じ高校へ進学したときには、部活で野球を続けるのではなく、別の部活にしてみてはどうかと勧められた。

兄の助言もあり、走ることが嫌いではあったが、兄と違うことが出来ると思い陸上部に入部。中途半端さは嫌だったためそれなりに一生懸命取り組んだのだが、野球などと違って個の頑張りがそのまま自身に返ってくるということ、パフォーマンスが他のメンバーの要因に左右されにくいこと、などの性質が割とあっていたためそこそこ熱心になれ、満足いく結果を残して高校3年に引退となった。

大学受験に切り替わる夏。私はそれまで勉強を授業以外で微塵もしたことがなく、親も強いて言うなら勉強しないのになんでできるのかというくらいで、何も勉強については言わず育ってきていた。今思い返すとすごいことだ。私が高一の夏休み終わりに、1度だけ学年の後ろから10数えれば、というくらいのひどい順位を取っても何も言わなかった。私に関心がない訳ではなく、むしろ絶妙な距離感を測りながらの愛情を注ぎ続けてくれていたと思う。父の憤りが子どもに向こうものなら必ず憤りに対して攻撃し、私たちを守ってくれる、そんな母だった。

受験のことだが、自主的な勉強を本当にしたことがない私は、ド田舎の自称進学校から筑波大へ現役合格した兄の存在に刺激され、自身の中で蠢き出す「中途半端」「劣等感」を力に変えて勉学へ励みだしたのだった。有名な参考書を片っ端から買い集め、スケジュールというものを建設し、朝は5:00に起きて数学をやり始め、バス通学や親の送りの時は英単語をひたすらにめくり、バイク通学の時は英単語を想起しては口に出し、学校では学校が閉まる20:00まで勉強し、そのあとも塾で自習を22:00頃までやるという生活に変えた。人一倍やって人並み。並を超えるには人二倍。自分の場合はそれでも足りないから人三倍やらねばならない。そう考え自身を鼓舞した。

そしてその日までの私が象徴的には死ぬ出来ごとが起こったわけであるが。

まあ今思ってもいきなり負荷をかけすぎたとは思う。し、中途半端さや劣等感が無理を可能にさせてしまっていた。

なんやかんやあって大学へ進学し、3年になった頃、「卒業する頃、親に大金を払ってもらった大学生活で何を学んだといえる?」と自身に問いかけた。

中途半端。

そう思ってしまい、どうにかしないといけないと考え出した。そうして見出した道が心理学をとことん学び、誰よりも精通するというものだった。そのため意を決して親に大学院進学を頼み、やりたいことならしっかりやれと言葉をもらい勉強に再び励む生活を送り出した。

他大学の大学院を目指したため、教授の専門や出題の癖などは内部生よりわからず若干の不利さはあったと言えるが、教授のワークショップに通ったりそこで先輩たちに色々教えてもらったりし、そのおかげで前期の夏で合格を得ることができたのだった。どうせ受かるならその年のトップで入学してやろうという意気込みも良かったと思う。

この頃、私には少し自信がついてきていた。

学部の卒業論文も形としてはかなりいいものだったと思えるし、院進学の勉強をしていたため統計、データの解釈も比較的よくできていた。同期と夜遅くまで研究室で勉強や卒論に取り組み、ときに友人を助けるために一晩研究室に残って夜通し統計をかけ直し文を書き直すということを行った日もあった。

卒業式にはゼミの先生であり、学科長でもあった先生から1番人間としても成長したと言葉を貰った。

ここまでの記述の仕方でお解りいただけるよう、自信に満ち溢れ始めていたのである。

そうして上京して始まった大学院生活。

自分は誰よりもできる。余裕で修了する。
そう思っていた。


だがそれは甘かった。みんなエリートだと思った。心理学以外の知識やスキルを持っている人たちもいた。考えてみればわかる事だ。都内のそこそこの名のある大学で、そこの教授たちの試験面接を突破して今ここにいるのだ。

そもそもの思考の深さや回転の速さ、記憶力や表現力、社交性、いい意味での感覚のスタンダードさ、意欲、積極性など、ベースの能力が高い人間たちばかりだった。


自分は凡人だ。いや凡人以下だった。
人二倍やって人並み。


そのことを忘れていた。

劣等感に苛まれる日々が始まった。徐々に大学院へ気持ち向かなくなり、足取りが重くなっていった。中途半端になるのかまた!と言い聞かせ必死に食らいつき、1年間を終えた。院2年生になったとき、残りの1年はやれるだけのことをやってやろうと気持ちを改めケースも検査も積極的に取り組み、追い込むことも多かった。

凡人は頑張るしかない。誰でもできる頑張るを誰よりもやるんだと毎日のように復唱した。

そうして無事修論や紀要なども書き終え、修了することができた。
お世話になった機関の立場ある人から、あなたの代であなたが1番成長した、と言ってもらうことができた。嬉しかった。でもやっと並に到達できただけだと思った。今もそう思う。

仕事をしはじめたが、同じ道の先を行く人たちと話をするとやはり自分は凡人以下だと思ってしまうことが多い。なにか飛び道具的なものを持っている訳でもない。地頭のよさも思考の鋭さもセンス?みたいなものも秀でてあるわけではない。心理学は絶えず学ぶがそれはこの道を歩む人たち皆が行うこと。知識で誰よりも秀でることは難しい。経験もいきなり追い越すことなどできない。と、様々に考え、そこで私はある答え、指針を見つけた。それは、


人間が持っている、普段から使っている力を誰よりも鋭く磨くということ。

きく、みる、はなす、伝える、考える、そうぞうする。

これらの力を誰よりも誰よりも磨き深め伸ばす。


そう決意した。

職業柄これらの力を用いるからというのはあるが、これらの当たり前に使っている力をそもそも認識することが容易ではなく、深めるという発想に至っている人も体感的にそう多くないと思う。

特別なことに感じられにくいであろうため、これらの力にフォーカスを当てる人は少ないのだろうと思う。子どもから大人まで誰もが使用している力だ。私自身もわからなくはないが、私が出会って感覚的にこの人はやばいと思った同業の先生たちはもれなくこれらの力に秀でていたと思う。向き合って考え、深めてきたのだと思う。

私も尊敬するやばいと感じられた先生達のように、聴こえない声を聴ける耳とこころを、見えないものを見れる目とこころを、獲得したい。

なにが見えているのだろう。
なにが聴こえているのだろう。

今も度々先生たちを思い出してはそう考えている。やばいという言葉を用いたが、そうとしか言えないのだ。針の穴に意図を通すかのような言葉の連続は、恐らくその先生のレベルだからみえるもの、きこえるものがあってこそなのだろうと思わざるを得ない。



と、まぁ、これが凡人なりの、戦い方、ひいては非凡への道なのではないかと思ったのだ。

中途半端さや劣等感を脇において生きれる道のようにも感じられている。

知識や技能も大切だ。でも取ってつけたものじゃないところの方がもっと大切だと私は信じてやまない。

尊敬する先生たちのステップには一生かけても到達できないかもしれない。でも、それでも追いかけてみたいのだ。

どんな形であれ、私と関わる目の前の人のために。

私自身のために。

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