自由への囚われ

自由への囚われ

「音楽に答えはない。」

では、何が音楽を差別化するのだろうか。
答えがないということは裏を返すと、各々の音楽のチョイスこそが、各々にとっての音楽の答えなのだ。

一人の旅人が尋ねた。
「君はどうやって音楽に出会っているかね?」

若者は答えた。
「たまたま耳に入った音楽を聞いているだけです。」

旅人は続けて訊いた。
「音楽を求めて歩くことはあるかい?」

若者は戸惑いながら答えた。
「私が求めなくとも音楽は歩いてきます。」

旅人は微笑んだ。
「僕は音楽を探す旅をしているんだ。」

音楽は自然と耳に入ってくることもあれば、手を伸ばして求めることもある。
音楽との触れ合い方に答えはない。あるとすれば自由こそが答えだ。

もし音楽に答えがあったら、果たしてそれは音楽であろうか。

文芸にも答えはない。
文芸というのは可能性のビッグバンである。
芸術たろうとしたき、そこには答えのない自由がある。

音楽と文芸の交差する場が、リリクスである。
リリクスは文芸的な技法と音楽的な技法を複合し、絶妙な重心配置を得ることで完成する。

面白いのは、曲と歌詞が調和しているだけではなく、脳に想起の連鎖をもたらすことだ。
もし楽曲を通して知っていれば、歌詞だけをみて曲を連想させるし、曲だけを聴いて歌詞を連想させる。

「まるで心に架かるはしごのようで、思い出を繋ぐパイプのような、刻まれる音楽を、きっと忘れない。」

ところで、時に音楽が錆びついて聴こえることがないだろうか。
レトロな音楽を古臭いと感じることはないだろうか。
しかしもし音楽を古臭さだけで切り捨ててしまうとしたら、なんというか、とてももったいないことである。

文芸で例えるならば、古典作品をないがしろにすることと同義だ。

「人間の本質は千年先も変わらない。何故なら千年前から同じだから。」

表現技法に時代背景による差異があるとしても、抽象化された本質は不変なのだ。

人間の表現活動に果たして限界はあるであろうか。
古来から様々な手段を用いて人間は表現をしてきた。

するとどうだろうか。気づくと表現というのは絶えず同じことを繰り返し訴えている気がしないでもない。
もちろん表現のされ方は常に進化している。しかし新しいと感じる表現でもよくよく調べてみると無から造られた作品というのは存在しない。

これは肯定的に解釈をすると人間は時代時代によって進化を重ねていると言える。

人間の頭脳活動と対比してみると面白い。
もし人間の頭脳活動の生み出すものの例に科学技術を挙げると、歴史上において様々な技術革命があった。

それらの多くはいきなりスタート地点からジャンプしたのではない。
過去の発明を足がかりとして、更に応用を重ねた発明は生まれる。

無から生まれる発明はないのだ。

頭脳活動は人類の積み重ねの産物であり、もし古代の人間が現代にタイムトラベルしてきたら魔法と科学の区別がつかないであろう。

音楽と文芸はどこまで自由なのだろうか。生来的に自由だとしても必ずしも自由が保証されているとは限らない。

どちらも歴史上、宗教や政治などの様々な用途に利用されてきたし、それに伴って表現の自由が禁止されたことも多々あった。
何故このような事象が発生するかというと、これらの表現の人へ与える影響が絶大な効力を持っているからだ。

音楽や文芸は思想や感情を大きく揺さぶるし、さらには根幹を司る感性やセンスにさえ揺さぶりを与える。

それらは脳内に留まり、記憶すら支配し思い出すら書き換えてしまいかねない。
人間の思考そのものに大きな変化をもたらすのだ。

現在でもすべての表現に自由があるわけではない。
例えば、宗教批判や国家批判など何かしらの批判活動などは適切ではないし、差別を助長するような表現もふさわしくないと言える。

しかし平和的な利用であれば、どこまでが平和的かはおいておいて、自由が与えられている。

そうなのだ。
思想や感情を強く揺さぶることのことのできることに表現活動の際たる面白さがある。

若い時に聴いた音楽は忘れたと思っていてもふと頭をよぎる。
若い時に聴く音楽は生活の一部に溶け込み、青春の一部となる。
時を跨いだとき、音楽は思い出のトリガーとなる。
文芸だってそうだ。

逆に大人になって聞く音楽は青春時代に聴く音楽と違うのだろうか。
もちろん生活の中に溶け込み実生活とリンクする。

だが、どちらかというと青春時代の音楽が素直に心に入ってくるのに対して、大人になってからの音楽というものはいままでの記憶の中の一部を一本釣りのごとく釣り上げる。

生活と並行して存在していた音楽は歳を重ねるにつれ、過去の記憶を想起させる時限装置の役割を持つこととなる。

どちらにせよ共通して言えるのは、表現活動における創作の発し手は、受け手の頭脳活動を揺さぶることができるのだ。

ある意味テレパシーであるが、違う。

同じ作品でも受け手の捉え方は千差万別であり、そこが表現の面白味である。

一から十まで説明する必要はない。
むしろ一から十までを説明することは不可能。

表現は少なからずその過程でシンプリファイされる。
この世のシンプリファイこそが表現なのだ。

捉え方の解釈の違いで派閥が別れてしまい時に争いも起こるが、それは世界の歴史に人間が誕生したことの宿命である。

人間には他の動物と同じく寿命があった。

だがしかし、文字が紡げた。
記憶を紡ぐことができた。

思いは伝播し形を変えて、生き物のように過去から未来へとときに分裂し、ときに合体し進んでいる。

この世に表現を生み出す自由と表現をチョイスする自由、この表現のキャッチボールは物理的な空間に制限されることなく時を超えて行われる。

果たして、人の根幹である、感性やセンスは普遍的なものであるのであろうか。
人は時を超えてキャッチボールをしている。

このボールとなるシンプリファイされた感性やセンスこそが人間の根幹である。

古典作品を読み解くと、背景となる時代が違う故に理解が難しいこともある。

しかし、人の根幹が変わらない故に、理解することが可能なのだ。

時を超えて紡げることが表現活動の最たる醍醐味である。

一方で科学技術の進歩における人間の頭脳活動を鑑みると、それは知識の積み重ねで成り立っている。
基本的なことを共通事項とするにしても、結果として目標とするのはより最新でより機能的であることが求められる。

どちらにも共通することはそれらが鎖のように連なっていることである。

人類は進歩してきた。
ここに自由はあったのであろうか。

現代において、我々は自由を手に入れたと錯覚を起こす。
果たしてどこに自由があるであろうか。

『レールの引かれた人生』という言葉があるが、このレールに乗っていない人生を歩んでいる人がどれだけいるであろうか。

脱線というと聞こえは悪いが、レールに乗らない人生というのは自由なようで自由ではないのだ。
自らの力で進むということは簡単ではない。
もしレールがあるのであれば乗ってしまったほうが楽であろう。

レールから外れるということは『普通』を手放すということだ。
こんなことを考えると、心の自由すら我々は持っていないのかも知れない。

しかし少し抵抗してみたいではないか。
心の自由すら束縛されがちないま、たった少しでいいから自由を手に入れる。

些細なことでいいのだ。

自由に音楽を受け入れる。
自由に文芸を受け入れる。

これだけでも何かの囚われから脱却できるかも知れない。


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