表現の産声
表現の産声
つらつらとラップトップに向かって文章をタイプしていると不思議な感覚を覚える。しかしこの表現も少し書いていて違和感がある。何故なら古典的に表現をしようとすれば、原稿用紙に向かってペンを走らせていると、と表現したくなるものである。
ラップトップという表現はカタカナ英語だし、もっと言えばより一般的なラップトップの表現はノートパソコンである。
何故、この単語を選択したかというといま文を打ち込んでいるのが偶然それだからである。別にスマホに指を走らせていると表現することもできるし、音声入力機能で声を文字にしているとも表現できる。
表現というのは時に命を持っているのだ。もし仮にこれが単なる単純作業として文を作成しているとしたら、私はこんな高飛車な言葉は使わない。
あえて高飛車に続ける。文章は時に芸術だ。
それが表現力を持っているとき、それは芸術なのだ。
では表現力とはなんだろうか。
表現力とはアウトプットの能力だけではなく、インプットの能力にも依存している。
ただし、その中間を司る『何か』を忘れてはいけない。
なぜ私が冒頭でラップトップという単語を使ったかというと、目の前にあって手で触れていたものが私にとってはラップトップだったからだ。
しかし、私はノートパソコンと表現することもできた。心持ちにはノートパソコンの方が無難な気もしていた。
受動的な心の感性はラップトップを認識した。理性がそれをノートパソコンと改めようとした。それを跳ね除けて能動的な心のセンスがラップトップをチョイスした。
人が表現を生み出すとき、心で受けて心が発する中間地点こそが理性である。
表現活動のオペレーティングシステムとなるのは頭脳活動なのだ。
パソコンでばかり例えても味気ない。
世界の風を受けるのが心の帆だとしたら、新たな世界への舵取りは頭脳活動であり、羅針盤となるのがセンスである。
では、船の向かうべき先はどこなのであろうか。
試しに一つの問を投げかけたい。
「作品というのは評価されてこそ価値があるのだろうか。」
評価されるというのも様々なされかたがあるのはもちろんだ。
例えば、『限りなく万人に評価される作品』『大衆に評価される作品』『少数に評価される作品』『一人の相手に評価される作品』『己で完結する作品』といったように評価される相手の母数を考えるとレンジが広く想定できる。
もう一つの被評価の観点についても述べたいところであるが後においておこう。
この作品へ評価は抽象的に一般化して応用もできうる。
この中の『一人の相手に評価される作品』ということの意義とは古い概念を使っていえば、パトロンを最も喜ばせる創作をするということと言える。
現代の一般化した概念では、パートナーに最も評価される家庭料理を作るとも言えるし、オーダーメイドの発注者を最も満足させる商品を作成するとも言える。
『大衆に評価される作品』というのは最も望ましい形とも一見思うかも知れないかもしれないが、果たしてその見解が真に正しいかというと疑問の余地がある。
大衆受けを狙うがゆえに作者のセンスを捻じ曲げざるをえない場合も多いからだ。
大衆の感性を大きく掴むためには作者の観ている世界を作品にそのまま投影するというのは難しい。
感性の平均値を狙いすませて創造しなくては大衆に広く評価されるのは難しい。
もちろん大きく異論はあるだろう。私自身もよく思う。
「私の想像する世界が万人に評価されたらどれほど良いか。」
しかし仮に万人に評価されるとしたら、それは万人に共通する価値観を適切に捉えていることと一致する。
万人に共通する価値観など存在するのであろうか。
レオナルド・ダ・ヴィンチは文理博学で有名である。
ダ・ヴィンチは芸術家として有名であると同時に数理的な学問に広く精通し、多くの研究や理論を提唱した。
彼の芸術作品が数理的な知見を絡ませ創造されたということが近年研究されてきた。
少し飛躍するが、数理的な知見による産物としてピラミッドがある。
ピラミッドは現代でも舌を巻くような数学的な美しさに則して建設されている。
ここで強調したいのは、人文的な尺度が相対的であるのに対し、数理的な尺度というのは絶対的であるということだ。
人の顔の美しさを数学の概念である黄金比で解釈することもできるし、ダ・ヴィンチの作品にも黄金比は応用されている。
『限りなく万人に評価される作品』というのは数理的な知見を基調として創造されたものであろう。
ここから、表現活動における頭脳活動の重要性がみてとれる。
感性という心の感覚器官で頭に映し出される世界は十人十色であり、我々は世間に溢れている作品から自らのセンスで好みのものをチョイスすることができる。
美観に平均値があるとすれば、この世界を共通して司る数理の真理に支配されていると思わざるをえない。
しかしながら、私はここで自らの言葉を翻す。
「美しすぎる作品は、時に人を跳ね除け、つけ入る隙をみせない。少し崩れて歪んだ世界の溝に、心は流れ込み、求めた何かを満たす。」
「作品としての拵えが高まるその時、旧来の美の感性は弾けて混ざり、新来の美の感性は飲まれ砕け、気づいたときには新しい世界を目にすることとなる。」
フィンセント・ファン・ゴッホの生涯において、どれほど絵が売れたかは諸説あるところであるが、存命中の評価よりはその後の評価のほうがより際立ったいた。
他からの評価というのは時をまたぐこともある一方、作品が『己で完結する作品』であって初めて評価された例といえよう。
「万人に評価されることは必ずしも正解ではない。」
「いつも正解を求めていた。答えを欲したその手は乾き、己を失い、干からびた手が描くものは磨り減って、心がなかった。」
もし、文芸、芸術、音楽などといったものに大きな差異があるとしたら、それは表現の手段に過ぎない。
では表現力を高めるとしたらどうすれば良いか、文芸の場合で説明してみよう。
表現力を構成する三要素は先に述べた。
これは文芸の場合。『読書』『考察』『執筆』となる。
しかしこれは若干本質を捉えてはおらず、表現の本質は手段によって限定されない。
読書はもちろん手段の一つとして大義があるが、仮に読書の目的が情報収集だとしたら手段は他にもある。
考察をせずに文章を書くことは難しいが、他の要素として考えてもいなかったアイデアが閃いたり、ふとしたことからインスピレーションが湧くこともある。他にも知らず知らず眠っているうちに頭の何処が勝手に作業をしているということもある。
では本質が何かと問われれば、言葉の再生産となるであろう。
文で構成される以上、言葉の世界の中で駒は進められる。
表現の入口が限りなく開かれていても出口は文章に限定されている。
となると三要素の中で唯一の『執筆』が文芸を表現することの際たる本質である。
音楽の表現の本質となってくると言葉選びが難しいが、『音を作ること』となるであろう。
芸術となるともはや言葉選びで太陽が沈み、登りそうである。
気づかれたかもしれないが、三要素の両端は表裏となっているのだ。
受け手側の文芸の本質が読書であるのに対し、発して側の文芸の本質が執筆である。
これらは面白いことに延々と繋がり、鎖のように過去から未来へ連なっている。
まるで表現とは世界の再生産であり、人間の営みそのもので、命のようだ。
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