見出し画像

はじまりの三重奏

忘れたい、忘れよう。
そう願う時期が長くなることで、その一つの記憶が色々な時間と繋がってしまい、結果として、忘れるべきことの中にだけ生きてしまうということを、想像したことはないだろうか。

1830年、詠み人知らずの小さな主題が20歳のロベルト・シューマンの日記に書きつけられた。翌1831年、ロベルトの師ヴィークの12歳の娘クララがその主題による『ロマンスと変奏 op.3』を作曲して、ロベルト・シューマンに献呈した。翌1832年、ロベルトはその主題を使って変奏曲を作曲し、師ヴィークの誕生日に献呈しようと思い立った。

曲は出来たものの出版してくれる版元が見つからず、仕方なく兄カール(生地近くのシュネーベルクで父と同じく出版業をしていた)に手伝ってもらい自費で出版することにした。
この変奏曲の題名は『クララ・ヴィークのロマンスによる即興曲』とした。
さて、印刷をする段になって、楽譜の表紙に兄カール・シューマンの名前が目立っているのが恥ずかしいと思ったのか、ベートーヴェンやフンメルの作品を出版していたフリードリヒ・ホフマイスターに「印刷などは全部こちらでやるので、あなたの名前だけを借りて表紙に書いてもよろしいか?師ヴィーク氏をびっくりさせたいから」という驚きの内容の手紙を送って頼み込んだ。それが1833年の7月31日のことである。
1833年8月18日、めでたくホフマイスター社の銘入りの『クララ・ヴィークのロマンスによる即興曲 op.5』が、名ピアノ教師フリードリヒ・ヴィークに献呈された。

貴重な"ホフマイスター"銘入りの楽譜
(その下に兄カールの名前も…)

1849年、ロベルト・シューマンの兄カールが死んだ。

何を思ったのか、ロベルトはあの『即興曲』を取り出して、第3曲を全て書き換え、第4曲と第11曲を丸ごと削除したほか、作品全体に手を加えた。

1850年『クララ・ヴィークの主題による即興曲』は、今度こそホフマイスター社から出版された。そこに兄カールの名前はなかった。
さらにいえば、義父ヴィークの名前もなかった。

《新版》としてホフマイスター社から出版された

ところで、新星ブラームスはその時のシューマン夫妻をみている。

1850年3月、シューマン夫妻はハンブルクを訪れ、ロベルトが指揮をして演奏会を行った。それを会場で聴いていたブラームスは、その時に書いていた作品をくるんでシューマン夫妻が滞在しているホテルに送ったのだが、その荷物は開封されることなく、くるまれたままブラームスの元に戻ってきてしまった。

1850年3月 ハンブルクで撮影された有名な写真

1853年の9月末、ブラームスはデュッセルドルフのシューマン家を訪れた。
そこで何が起こったかはすでに様々なところで詳しく書かれているので、ざっと触れるだけにするが、1853年10月、とにかくそれは大事件であった。

1. シューマンがヴァイオリン協奏曲を完成させたが、オーケストラに演奏を拒否されて初演は実現しなかった。
2. シューマン・ブラームス・ディートリヒの合作によるF.A.E.ソナタが書かれ、シューマン家でヨアヒムとクララによって初演された。
3. シューマンがヴァイオリンソナタ 第3番を書き、同時にブラームスがピアノソナタ 第3番を完成させた。
4. 11月、シューマン夫妻はオランダに演奏旅行に出かけ、デュッセルドルフを去ったブラームスはすぐにピアノ三重奏曲の作曲に取り掛かった。

ここで、ようやくこの文章の主題を書くことが出来る。

シューマン家を去ったブラームスが1854年1月に完成させた『ピアノ三重奏曲 ロ長調 op.8』の中に、あの「クララ・ヴィークの主題」が登場するのである。

続きます!


最終編「不在の存在証明、永遠の三重奏」はこちら

・・・・・

2024年1月25日&26日 20:00開演
「始まりの三重奏」
メルセデス・アンサンブル
https://www.cafe-montage.com/prg/24012526.html

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?