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季夏のメリークリスマス

ある作家が年の瀬に避暑地の物語を依頼され、どうにも気分が乗らずに困った、という話を読んだことがあります。

作家はカーテンを引いて屋外の吹雪を隠し、ありったけの暖房器具と麻のシャツ、アイスコーヒーに浜辺の環境音を用意して、どうにか夏の体感を再現したそうです。


それならば私は逆に、いま何としても冬の空気を思い出したい気分です。
なぜって、もう8月も終わりというのに、毎日あまりに暑すぎます。

かといって冷房を極限まで効かせるのも光熱費と健康が気がかりですし、ここは適度に部屋を冷やしつつ、気分だけでも冬を感じられる本を読むのが良いかもしれません。


まず手始めに、稲垣美春さんの『サンタクロースの秘密』(講談社・1995)

“究極のサンタクロース・エンサイクロペディア”であるこの本は、フィンランドでのクリスマスの迎え方、サンタクロースにまつわる考察や蘊蓄うんちくが詰まっています。

それというのも、著者の稲垣さんはフィンランド文化を日本に広めた第一人者で、作家、翻訳家であるだけでなく、フィンランド語に特化した出版社の代表まで務めておられるからです。

ご自身のフィンランド留学時代のエピソードを綴った『フィンランド語は猫の言葉』は傑作ですが、『サンタクロースの秘密』も面白さでは引けを取りません。


どうせならとことん酔狂を極めるべく、コレルリの『クリスマス協奏曲』も流してページをめくり始めたのですが、この中には思わず声を上げてしまう、ある驚きのエピソードが存在します。

サンタクロースには不可欠な相棒、トナカイについて割かれた章で、稲垣さんはトナカイの生息地から歴史や伝説、とこの動物を深掘りし、ふとこんな疑問を抱きます。

“サンタクロースはなぜトナカイに鈴をつけ、音を鳴らすのか”

〈サンタさん出現時における音楽的効果の考察〉を続けるうち、あまりにテーマが込み入ってきたため、稲垣さんはこんな場合の“専門家“である“作曲家のS君”に相談を持ちかけます。

サンタクロースのそりを引くトナカイについている鈴の音を分析したいんだけど…

それを聞いたS君の答えがこちら。

音がするものは、みんなシャーマニズムと関係があるんだよ。神社で鳴らす鈴もそうで、浮遊している気を、鈴を鳴らすことで集めるんだよ


さすが作曲家というべきか、一般人では思いもつかない発想です。
そのうえ、今ひとつ釈然としない稲垣さんに
「詳しいことを、こんど、調べとくよ」
と請け負ってくれるほどの親切さ。

けれどもS君について〈彼は彼で自分のクリスマスに忙しいらしく、トナカイの引くそりに乗って、映画のロケに行ってしまった〉と稲垣さんは書いています。

その彼の参加した映画のタイトルが『戦場のメリークリスマス

ここは、遠慮なく叫ぶところです。
「教授!」
メリー・クリスマス ミスターローレンス。
作曲家S君とは若き日の坂本龍一さんのことであり、そりゃあ、その回答だよね…と心底から納得します。


天下の坂本教授に気軽に質問を投げかけられる、稲垣さんの交友関係も驚きですが、ことさらそこを広げるでもなく、S君は以後まるで登場しません。
シャーマニズム説も、この場合は当てはまらないというところに落ち着きました。

その他、政治、宗教、地理、物理、料理、郵便、衣装などありとあらゆる切り口で“サンタクロース学”が展開され、読み終わる頃には、広大な森から切り出してきた、頂上に星の輝くもみの木の側で、熱々のグロギ(スパイス入りホットワイン)を楽しみながら、コルヴァトゥントゥリ出身のサンタさんと、親しく語らったような気分になれます。


他にもシェイクスピアの『冬物語』、米原万里さんの『マイナス50℃の世界』も用意していたのですが、人間の嫉妬と思い込みが織りなす16年間の不幸を描いた物語や、“世界一寒い国”の驚異に満ちたルポタージュの力を借りずとも、ひとまずの涼感は得られました。

まだ『クリスマス協奏曲』を響かせるオーディオのスイッチを切り、本を抱えて部屋から出ると、一瞬にしてむっと湿った生暖かい空気に包まれます。
深くため息をつきたいところですが、これはこれで、現実を受け入れるしかありません。

「かき氷、食べる?」
声をかけると、犬が大急ぎで駆け寄ってきたため、これから一人と一匹分の、美味しい氷菓子の準備にかかろうと思います。

夏ももう折り返し。
あと数ヶ月もすれば、きっとこの瞬間も愉しく思い出すでしょうから。



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