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Härlig musik─美しい音楽

「目の前で奏でられる凡庸な音楽は、どんな名演を収めたレコードにも勝る」

ジャズに関する、そんな言い回しを聞いたことがあります。
ジャズはその場で生まれる即興のやり取りこそが最重要視されるためかもしれません。

それでは、目前で演奏されるのが、凡庸どころか、手練れのミュージシャンたちによる熱の込もったセッションだとしたら。

つい最近、そんな別世界に誘われるような時間を味わいました。



音楽や演劇は、コロナ禍で激しい打撃を受けた分野のひとつです。
そこでは、やっと世の中が正常化しつつある今になっても、多くの部分で数年前の水準には戻りきらないといいます。

かくいう私も、前回のライブ鑑賞がいつだったか容易には思い出せず、先週ひさしぶりに出かけたジャズライブでは、妙な緊張感があるほどでした。

案内された席もきっとその一因で、私がついたのは、フロアに並べられたテーブルのうち、マイクスタンドの真ん前でした。

当然、公演の間は歌手と何度も目が合うばかりか、息づかいやため息を聞き、ファルセットの際に紅くなる皮膚をまざまざと見、といった具合に臨場感たっぷりです。



その日、ステージに立った歌い手はイザベラ・ラングレンで、スタンダード・ナンバーが得意な、北欧を代表するシンガーの一人です。

ビリー・ホリデイジュディ・ガーランドに心酔し、一心に歌い込んできたというその歌声は、一言で言えば繊細で素直。
曲の合間のおしゃべりからも垣間見える飾り気なさが、声や歌にもあらわれているのを感じさせます。
英語が母国語でないためか、子音を崩しすぎない発音の端正さ、耳触りの良さも魅力です。

世界中を共に巡るバンドメンバーとの間に流れる敬意と信頼、皆で素晴らしい音楽を作り上げているのだという多幸感が、ステージ上にあふれていました。



帰宅してから調べてみると、イザベラさんはスウェーデン・ストックホルムの生まれであり、“モニカ・ゼタールンド奨学金”というものを受けています。

アバカーディガンズなど、スウェーデン出身の有名歌手は多いのですが、私にとってスウェーデンの歌手といえば、モニカ・ゼタールンドその人です。

ジャズ好きでなくとも、きっとどこかで耳にしているであろう、ビル・エヴァンスの名曲『ワルツ・フォー・デビー

この曲を最初に歌詞つきで歌ったのがモニカであり、彼女以上にこの曲を歌いこなせる人はおそらく存在しないでしょう。

作曲者のエヴァンスも同じように考えていたことが、二人が共演した映像の、息の合った幸福そうな様子からも見て取れます。



他にもそれを思いがけない形で観たのが、とある映画の中でです。
残念ながらタイトルを失念したフランス映画で、主人公の女性が当てどもない旅に出る、というロードムービーでした。

旅の途中、彼女は同じ宿に泊まる男性と知り合いになり、良ければ部屋へ遊びに来ないかと誘われます。

夜、手持ち無沙汰で何もすることのない彼女は彼の部屋を訪れ、二人は互いにごく短く身の上を語り合います。

スウェーデン人の彼は仕事のため世界中を飛び回っており、さっきも家族と電話で話したところだ、と屈託がありません。

彼女はそんな話にほとんど関心がなく、開きっぱなしの彼のパソコンを指して、何を観ているのかと尋ねます。そこからかすかに音楽が漏れ聞こえていたためです。

彼は画面を彼女の方に向け、そこで流れているのが『ワルツ・フォー・デビー』を歌うモニカの映像でした。



「知ってる?スウェーデンの国民的大スター。時々すごく彼女の歌が聴きたくなるんだ」

壁に背をつけ、ベッドの上に脚を伸ばして映像に観入る彼の隣で、彼女はいかにも興味なさげに、ちらりと画面に目をやるだけです。
二人はそれ以上なにも話さず、そこで夜のシーンは終わります。

翌朝には彼はもう登場せず、それから二人がどうなったかは、描かれないままなのです。

どうにも噛み合わない相手なのに幻滅し、彼女はおやすみを告げて部屋を出たのか、それともなおそこに留まったのか。
そこはあえて曖昧にし、観客の想像力に任せるような描き方でした。



映画の中の設定とはいえ、スウェーデン人目線でモニカは祖国そのもののような人であり、スウェーデン語で歌われる『ワルツ・フォー・デビー』が、いささかセンチメンタルな要素まで持ち合わせていることは驚きでした。

私も長いこと日本を離れれば、同じような心境になるのかもしれません。
その時は、誰の何という曲を聴くだろう。
そんなことも考えてしまいます。



それにしても、もし映画の中の男性がイザベラさんのライブに行き、彼女の歌を聴いたとしたら、ずいぶんとホームシックも慰められたに違いありません。
彼は、あなたにはモニカのような上品で心地よい芸術性がある、などとイザベラさんに熱心に話しかけたでしょうか。

そんなことを空想をしつつ、まだ色濃く頭の中で残響する、イザベラさんの『オーバー・ザ・レインボー』を味わっています。

これもまた、生の音楽を聴く醍醐味のひとつかもしれません。

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