見出し画像

きれいはきたない、きたないはきれい

「あの人を好きなのかな。これが恋愛っていうんなら、どれだけ汚いものかと思うよ」

ポットの茉莉花茶を入れようとしている時、リビングのテレビからこんな台詞が聞こえてきました。

思わずそちらへ目をやると、高校生の男の子が橋の欄干に片手を置き、遠くへ視線をさまよわせる情景が映っています。

その側には同じ高校と思しき制服を着た女の子が立ち、彼女も目線を全く違う方向へ向けています。

二人はごく近くにいるにしても、まるで心が添っていないということがすぐにわかる光景です。


その後の台詞で"あの人"は彼よりずいぶん年上の女性であり、彼はその女性の嘘に翻弄されていることがわかるのですが、この一場面が妙に心に残ったのは、彼が口にした「汚い」という言葉ゆえです。
この単語は、物語に関する多くを含んでいました。

後の展開でわかったところ、彼は結局その女性に利用されているのですが、彼は彼で、薄々それを感じ取りつつ、彼女が自分をある事情の隠れ蓑にしている事実を逆手にとって、彼女との接点を保ち続けているのです。

彼の前に立つ女の子はその事実のいくばくかを把握しており、暗に彼を責めるのですが、その時に彼は悲しみと自嘲の込もった口調で、くだんの台詞を口にしたというわけです。

こんな関係性は現実にもありそうながら、そこに「汚い」という言葉が選択されるあたり、思春期特有の潔癖さと純粋さが際立って表現されている印象でした。

その人の中に"綺麗"なものを尊ぶ感覚が無ければ、"汚い"ものを忌む気持ちは決して生まれてはこないでしょうから。


美醜の比較というならば、私の場合、真っ先に思い浮かぶのはシェイクスピアです。
たとえば『マクベス』に登場する、有名なあの台詞。

Fair is foul, and foul is fair
きれいはきたない、きたないはきれい

第一幕第一場、雷鳴と共に現れた三人の"荒れ地の魔女"の一人が、不可思議かつ不吉な会話の中で口にする言葉です。

意味の解釈は多種多様で、マクベスの今後の運命を暗示している、単なる天気の話、公正さについてに違いない、など、おそらくどれもが正解であるような、広い解釈が可能な表現となっています。

それでも解釈の全てにおいて共通するのは"価値の転換"を指す点で、誰かの目や立場から見ての確信も、別の視点からは異なることがままある、という真実を示しています。


国や人種間の争いがそうでしょうし、もっと身近なところでは、時代ごとの美の基準、土地それぞれの味の好み、流行に左右されるファッションのトレンドなども、その一例と言えそうです。

また、剥き出しになったパイプが絡む工場群や、猥雑な雰囲気の裏街、打ち捨てられた廃墟など、普通は"綺麗"とは感じないであろう場所に美を見出したり、陰鬱なコンクリート塀の前に立つ夜会服姿のファッションモデル、ごみ集積所のてっぺんに置かれたガラス玉、あえて毒々しく装った人のやさしげな微笑など、一見"汚い"ところに光るミスマッチの美もまた"価値の転換"のひとつです。

そういった"これは美しくこれは醜い"とされているものの価値観がひっくり返る局面を体験する度、魔女の言葉も真実味を帯びてきます。


漢文学者の白川静の言うところでは【きたなし(汚)】は元々「形無し」を意味し、本来の形が崩れることを指しています。
対する【きよし(浄・清)】は本来の形を保っていることを指し、余分のものや汚れのないこと、すなわち純粋であることを意味します。

そして、この言葉は『万葉集』あたりでは山河について使われることが多いものの、元は人の生き様を語る言葉でした。

清らかで美しいことを良しとし、形が崩れた、道を踏み外した状態を悪しとする。
古の日本人の人間観、理想の生き方がそこからは垣間見えます。

このようにすっきりと生き、誰はばかることなく堂々と顔を上げていられるのは理想のあり方ながら、時にそれが叶わないこと、清濁併せ呑む生き方が求められることもあり得ます。

冒頭にあげたドラマの高校生たちには眉を顰められてしまうかもしれませんが、大人になるとはそのあたりを上手くやり過ごし、小さなことに目を瞑る度量をも備えることなのかもしれません。
もちろん、完全にそこに取り込まれることなく、あくまで自分の中の"きれいさ"を保てる範囲で。


『美しきインタラクション』という話の中にも書いたのですが、美意識は自分を支え、常に正しい道に導く背骨のようなものに違いない、というのが私の考えです。

そして、そんな美意識をどこまでもゆるぎなく強めるからこそ、"きたなさ"にすら呑み込まれず共存できるように思います。
哲学者シモーヌ・ヴェイユも述べるように。

純粋さとは、汚れを直視する力である

真の美しさは強さの別名でもあり、それが堅牢であればあるほど、少々の穢れや崩れに引っ張られてなお、形を保ったままでいられます。

あらゆるものに表と裏があるのが人間や世界の常ならば、きれいときたないの間を行き来しながら、きれい事でない世界をしたたかに生き抜いてゆけるよう願います。
きれいさの力に支えられながら。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?