07.公地公民制の動揺と荘園

「正確さ×わかりやすさ×記憶に残しやすさ」。ちゃんと説明できてるか怪しいです。



【図1】全体像

1.律令運用期(8~9世紀)

 7世紀の中央集権化政策によって,律令を運用する時期。この時期はいわゆる公地公民制が展開された。

・国司制度:四等官制

 まず律令制度における国司は四等官制であったことを確認しておく。任国には上から守・介・掾・目の4名が派遣され,朝廷の指示・監督のもと,共同責任で行政を行った。国司の行政において,現地の有力者である郡司の協力は必要不可欠であった。

・公有地:班田制

 もともとヤマト政権は豪族たちの連合政権であり,大王家と豪族家がそれぞれ自分たちの領土と領民を領有し,それを経済基盤としていた(いわゆる私地私民制)。しかし,7世紀の中央集権化政策のなかで,それらの直轄領(屯倉・田荘)が収公され,それぞれの領有民(田部・部曲)も公民とされた。すべての土地とすべての人民は国のものとされたのだ(いわゆる公地公民制)。

【図2】私地私民制と公地公民制
※大王家の屯倉は各地に設けられており,地方豪族に支配を任せている。

 公地公民制では,貴族は都に集住し(都城制。都=宮から京へ),公地は口分田として公民に班給された(班田収授法)。公民は貸し与えられた田地で耕作を行い,自分たちの生活基盤とする一方,収穫高に応じて税を納め,それが貴族の給与となった。
 公民を把握・支配するための方法としては,戸籍・計帳が用いられた。戸籍は6年に1回作成され,それに基づいて班田を行い,その田地面積(収穫高)に応じて租を課した。それに対し,計帳は毎年作成され,調・庸・雑徭を課すのに用いられた。調・庸・雑徭は租と異なり,人ごとに課せられた税であり,主に正丁(成人男子)が負担した。調・庸の都への運搬や兵役も含めると重たい負担であったため,農民の浮浪・逃亡・偽籍が相次いだ。

・私有地:初期荘園(自墾地系荘園)

 墾田永年私財法(743)・加墾禁止令の撤回(772)によって貴族や寺社が大規模開墾を行った。初期荘園の成立である(貴族や寺社が主体となったことから後の寄進地系荘園と対比的に自墾地系荘園ともいう)。注意したいのは初期荘園は,輸租田であり,合法的私有地である(誤解を恐れずに言えば,税の増収を狙った政府主導の荘園=公地公民制の補完であって崩壊ではない)。また,公地と荘園で完全な棲み分けがなされているわけではなく,広大に広がる条里の或る区画だけ(田と専用の倉庫)が荘園といった形になっている。荘園と公地が入り混じっているような状態だ。開墾や耕作にあたっても付近の班田農民や浮浪人が動員されていることから,律令制度ありきの荘園である。したがって,律令制度そのものの動揺に伴って衰退する。


 浮浪・逃亡・偽籍の増加によって調・庸の未納が増えるなか,桓武天皇が再建策を行った。雑徭の日数を半減し,公出挙の利息も減らし,農民の負担を軽減する一方,班田励行を行った。しかし,効果は上がらなかった。そのため政府は,9世紀に不足した国家財政を補填するべく直営田方式を導入した(公営田・官田)。
 ここで見落としたくないのが,没落する農民がいる一方で,才覚を発揮して裕福になる農民が台頭したということである。彼ら有力農民(「富豪層」・「富豪の輩」などと言う)は,税の代納などを行って貧しい農民を支配下に組み込み,不法に開墾を行った。そして院宮王臣家と私的に結びついた(誤解を恐れずに言えばワイロみたいなもの)。むろん,これらは初期荘園と異なり,違法土地所有である。教科書において,ここの文脈は用語として出てくるわけではないため看過されがちであるが,ここを踏まえておかないと延喜の荘園整理令以降の動きを理解できない。なお,天皇家に関しても勅旨田を設けて皇室財政を賄った。

2.摂関期(10~11世紀半ば)

 こうしたなか醍醐天皇が再建策に乗り出した。まず902年に延喜の荘園整理令を出し,「富豪の輩と院宮王臣家の結託による違法土地所有の廃止」と「勅旨田の停止」を命じ,そのうえで班田を実施して建て直そうとした。しかし,皮肉なことに結果的にこれが最後の班田になってしまう。というのも,三善清行の『意見封事十二箇条』(914)が指摘するように,浮浪・逃亡・偽籍によって戸籍・計帳による人民支配が機能しておらず,それに基づいた班田や課税はもはや限界だったのだ。ここにきて抜本的な方針転換が迫られることになる。

・国司制度:受領制

 まず国司制度を四等官制から受領制に変更する。受領とは,任国に赴任する国司の最上席者(ふつう「守」)のことで,この受領一人に一国の徴税と支配を委ねる形をとった(一定額の税さえ納めれば好きなように統治してもよい)。それまでの四等官制では,朝廷の指示・監視のもと,四人での共同責任で動いていた国司だったが,それを一人にし自由裁量を認められた形となる(権利と責任が集中)。この結果,公地は次第に国衙領と呼ばれるようになっていき,さらに受領という官職は利権化が進んだ。成功や重任などが横行する。また,受領本人が現地に赴任しない遙任なども見られた(目代を派遣して留守所において在庁官人=富豪層を指揮)。

・公有地:負名体制

 土地制度の面では戸籍・計帳による人民支配(班田および人頭税中心の体制)が見直された。戸籍上では,公民(納税者)が減っているが,彼らは浮浪・逃亡・偽籍をしているのであって,当然消えたわけではない。主に有力農民(いわゆる富豪層。この頃「田堵」と呼ばれる)の支配下に組み込まれているのである。そこで朝廷は,人ごとでなく土地ごとに税を集める形をとった。まず公地を名(名田)と再編して,その名ごとに納税額を設定した。人別の支配から土地別の支配へと切り替えたのである。

【図3】人ごとの支配から土地ごとの支配へ
こうして見ると富豪層を院宮王臣家から切り離し,制度化し国家公認にした仕組みに見える。

 これに伴い,税制も変化している。班田(戸籍)を前提とする租,計帳を前提とする調・庸・雑徭を簡素化し,官物・臨時雑役とした。これを田堵が受領に,受領が朝廷に収める形となった。

・私有地:免田型荘園(免田・寄人型荘園)

 前述したように受領国司には自由裁量が認められているが,そのなかで受領は自らの裁量で税を減免することがあった。減免する理由は新規開墾のインセンティブなどである。農民のモチベーションを上げることで結果的に税の増収に繋がるという判断だ。こうしてできた免田を国免荘という。ただ,これ自体は免田型荘園とは呼ばない。このように免田された土地が,“さまざまな理由”で権勢門家(中央貴族や寺社)のもとに集まることがある。そのようにして成立したのが免田型荘園である。
 その“さまざまな理由”というのが,①寄進,②便補,③寄人による要求である。それぞれ説明していこう。①寄進は,免田された土地の持ち主が自分たちの権利を強化するために権勢門家に土地を寄進してその保護を受けるという形式だ(いわゆる寄進地系荘園)。権勢門家の圧力によって,国司は免田に対して荘園として認可した。②便補とは,本来であれば複数の田から集めた税の中から中央に納める税を計算していたものを,あらかじめ「ある田から納められた税は特定の貴族や寺社に納める」といった具合に,事前に田地を指定しておくことである。その土地は実質的に納入先の権勢門家の荘園ということになる。③は,権勢門家のもとで奉仕する人々を寄人と言うが,その末端には農民もいた。彼らが,自分たちの雇い主である権勢門家に対して自分たちの土地にかかる税の減免を求めたのである。

 このような経緯を経て免田型荘園は成立し,また当時の権力者であった摂関家に土地が集中する。違法ではないが,合法というよりは無法地帯といってよいかもしれない。増加の一途を辿り,そのなかで不法に荘園(券契不明の荘園)が設置されることもあった。次第に国家財政を圧迫していく。

 なお,国司による免田(国免荘)は,国司が任期によって交代するたびに存続の危機に瀕した。そして免田型荘園は,租税が免除されたものだが(不輸の権),基本的に国司の検田使の立ち入りは拒否できなかった。あくまで国衙の影響下にあったということであり,荘園としては不安定だったのである。それに対して官省符荘と呼ばれる朝廷(太政官・民部省)による免田も存在したが,それらによる荘園は国司交代によって税の減免が解かれることもなく,また国司の検田使の立ち入りも拒否できたようである(不入の権)。

3.院政期(11世紀半ば~)

 11世紀には,内裏や寺社の火災が相次ぎ,その再建費用調達が課題となった(荘園・公領問わず一国平均役を課すなどしている)。そんななか後三条天皇によって延久の荘園整理令(1069)が打ち出される。実は,摂関期においても何度か荘園整理令は出されている。ところが,効果は上がっていない。それは,荘園整理を国司に任せていたからで,国司は摂関家に忖度して十分な荘園整理ができなかったのである。後三条天皇は,藤原氏を外戚としない。彼は,国司ではなく中央に記録荘園券契所を設置して,藤原氏に遠慮なく荘園整理を断行した。整理の対象となったのは,1045年以降の新立荘園と,券契不明の荘園,その他国務の妨げとなる荘園である。逆に言えば,これ以外の荘園を認めたということであり,荘園と公領の境界が明確化=国内に荘園が公然と存在することとなる(荘園公領制)。

・国司制度:知行国制度

 院政期においては,院や摂関家が知行国主となって,近親者を名目上の国司として推薦・派遣した。国司個人と知行国主の結びつきが強いのが特徴である。

・公有地:国衙領

 知行国となった国衙領は,中身についても改編されていて,それまで国ー郡ー里(郷)だったのが,国内に新たに保が成立し,また郷が郡から自立し,それらが郡と並ぶ存在になる。つまり国のしたに郡・郷・保(これに加えて荘園)が併存する形となった。税に関しても年貢・公事・夫役へと改められた。知行国から集められた税は,国司を通して,朝廷ではなく院個人のもとへと運ばれた。公領とは言っているものの,実態は荘園と変わらない。

【図4】公領再編
【図5】荘園公領制

・私有地:中世荘園(領域型荘園)

 この時期の荘園は2通りの方法によって成立した。それが「下からの寄進」と「上からの立荘」である。下からの寄進は摂関期にも見られたように開発領主たちが自分たちの土地や権利の保護を求めた形だ。上からの立荘は上皇や寺社自らが財源確保・費用調達のために一定の地域を囲い込み,自分の私有地とした形である。いずれにしても摂関期荘園に比べ,不輸・不入の権が一般化しており,治外法権と化している。
 そしてこの時期の荘園の最大の特徴は領域的であるということ。古代荘園はあくまで田ごとの話であった。しかし院政期の荘園は,田だけではなく,山や川などを含む一定の「領域」であり,それはまるで上皇の領地のようである。このことから領域型荘園と呼ぶことがある。鳥羽院にはじまる八条女院領と,後白河院にはじまる長溝堂領の2つの荘園群は抑えておきたい。

【図6】荘園の領域化

 知行国制と中世荘園の広まりをうけて朝廷から中央貴族への給付は形骸化し,彼らの収入は知行国と荘園への依存度を強めていく。以前は中世=武士の時代(土地を媒介とした主従関係の時代)と捉えることが多かったが,現在はこの荘園公領制をもって,中世の幕開けとする見方が主流である(時期としては後三条朝)。荘園制の終わりに関しても以前は太閤検地という見方が強かったが,最近では応仁の乱をもって解体されたとするのが定説になりつつある。

おまけ.「寄進地系荘園」という概念について思うこと

 従来は「摂関期の荘園(免田型荘園)」と「院政期の荘園(領域型荘園)」をまとめて「寄進地系荘園」という語句で説明することが多かった(摂関期以降の荘園のひとつの例として寄進地系荘園“のみ”を取り上げ,“その変化”という文脈で院政期に領域化が進んだと説明する)。しかし最近はこの語句は避けられる傾向にある。というのも,①この語句でまとめると,摂関期荘園と院政期荘園の違いが分かりにくい,②摂関期の荘園は寄進以外でも成立したし(便補・寄人),③院政期荘園も寄進以外でも成立した(立荘)という視点は見過ごせない。以上を考慮すると,②´摂関期の荘園は寄進という一つの具体例を取り上げるのではなく,全体に共通する免田の集積という文脈を強調して「免田型荘園」,③´院政期の荘園も立荘・寄進という成立過程に注目するのではなくその実態を示す「領域型荘園」あるいは時期を強調した「中世荘園」という語句を使うほうが適当である,ということだろう(多分)。
 ただ,入試的には「免田型荘園」はもちろん,「便補」や「寄人による要求」,「領域化型荘園」や「立荘」も滅多に出題されないので,用語としては「寄進地系荘園」という語句だけを抑えておけばよく,ここで寄進地系荘園という語句を使ってしまうと,院政期の荘園も寄進を伴う場合があるから区別しないほうが都合が良い(摂関期荘園を寄進地系荘園と呼び,院政期荘園を領域型荘園という語句にしてしまうと寄進が摂関期特有に見えてしまうが,摂関期を免田型荘園とすると細かすぎる⇒「摂関期から見られる寄進地系荘園は院政期に領域化が進んだ」と説明するのが丸い。なお,そうすると立荘に触れられない)。
 さらに補足しておくと,寄進地系荘園の根拠のように用いられる「紀伊国鹿子木荘」の史料は,鎌倉時代に裁判のために作成された文書というのがわかっている。この史料を用いている山川出版『詳説日本史B』は「寄進地系荘園」を摂関期と院政期の間で説明しているが,寄進地系荘園自体はそこを起点に中世まで続くという説明をしているので,鎌倉時代の史料を採用しているのかもしれない。しかし,繰り返すように寄進によって成立する荘園は摂関期も中世も一つの例に過ぎないというのは看過できないだろう。摂関期以降の荘園が,中世荘園も含めて,受領による暴政が寄進地系荘園へつながったということが普遍的なものとして見るのには少し慎重になったほうがよい。わかりやすさのために嘘を教えることはよくないが,学説が割れていることや,内容を掘り下げすぎないことを考えて,生徒のレベルを見つつ指導にあたりたい。
 念押ししておくと,寄進地系荘園という見方が誤っているわけではなく,実体を正確に捉えるうえで枠組みを見直したほうが良い(けど細かくなりすぎてしまう)という話だと思う。


・メモ:藤原頼通と後三条天皇

 なお,摂関家荘園においては「上からの立荘」はあまり見られないと言ってよいだろう。後三条天皇が藤原頼道に対して摂関家の荘園整理をする旨を話したところ,頼道は反対することなくむしろ「我々が徹底するべきだった」と述べ,「そもそも摂関家の荘園は自分たちで囲い込んだわけではなく受動的に成立したものだ」と説明している。

・メモ:受領の善政と悪政

 自由裁量を認められた受領は富を得ることに必死だったとよく語られる。今昔物語集に「受領は倒るるところに土をも掴め」と語られる藤原陳忠はそれを象徴するエピソードとして教科書にも掲載されている。
 また,寄進地系荘園の成立という文脈で語られがちだが,そうしたなか悪政を働いた受領もいる。有名なのが「尾張国郡司百姓等」に訴えられた藤原元命である。彼は農民から過大に税を取り立てただけでなく,虚偽の収支報告を朝廷にしていた。一方で,元命のあと尾張国の国司に任命された大江匡衡は,学校を建てて地域教育を振興したり,用水路を整備したことで知られる(農民たちはその用水路を大江川と呼んだ)。すべての受領が悪政を働いたわけではないのだ。後三条天皇に重用された大江匡房が彼の孫であるというの面白い。

授業ノート

主な参考文献

・『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』(伊藤俊一,中央公論新社)
・『「荘園」で読み解く日本の中世』(伊藤俊一監修,宝島社)


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