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信仰の多様性を考える

ここでの信仰の定義


信仰はどんな人間も、どんなことにも持っていると私は認識している。
例えば、服を購入するに際しどんなことを気を付けるだろうか。
店員の愛想の良さ?ネットで手軽に購入できること?
サイズ、状態が悪くないか(糸が出てる、穴が空いてるなど)、洗濯出来るか、素材、質感、手触り…
様々な情報から、「私はこの服を購入する」と決めているはず。
商品として陳列されている服は無機物でありそこに並べられた時点から大きな変化はないが
それの中からどれを選択するのかは人によって全く違う。
私はそれを「信仰の違い」と解釈している。

何かを選択する判断を下す。
その拠り所となるものが信仰であると私は考える。
何も信じずに生きていくことは、人間には出来ないと私は思う。
信じることが出来なければ、人間社会では生きていけない。
何を正しいと考え、その根拠は何であると認識しているのか。
それがなければ、自身の行動・選択の良し悪しを判断することは出来ないだろう。

何を信じ、何を信じずに生きるか。
それがなければ、我々は日々の生活で示される数多の選択肢に立ち向かうことなど出来ないのではないだろうか。
どの宗教の信者であるかだけが信仰ではなく、 それは信仰の中の一種でしかないというのが私の考えである。


新興宗教と世界三大宗教


日本において、新興宗教への風当たりは強い。
要因として考えられる大きな事件ではオウム真理教信者によって引き起こされた、地下鉄サリン事件が最も有名だろう。
最近では安部元首相暗殺事件によって話題になった旧統一教会も新興宗教の一つである。
新興宗教への悪いイメージとしては、このような意見が散見される。

・強引な勧誘
・信者への洗脳
・他宗教に関連するイベント(クリスマスなど)への参加規制
・情報統制(特定のメディアを閲覧してはいけないなど)
・各種規制による、信者の付き合いの悪さ
・信者に献金を要求すること
・二世問題  ※子が親と同じ宗教の信者にされること。
・法(信教の自由)による加護があるため、諸問題があっても存在を認めざるおえないこと


宗教は信者がいなければ成り立たないため
信者数が稼げなくなりそうな情報統制、イベント参加規制は、緩いまたは全く無い新興宗教は意外に多いが
それ以外のものは軒並み、大体の新興宗教が持っている要素である。

さて、それでは新興宗教ではない宗教・・・世界三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)はどうだろうか。

・強引な勧誘
少なくとも日本においては、あまりないと言える。理由は後述。

・信者への洗脳
はっきり言うが、これをしていない宗教は存在しない。
宗教は無知無学な民衆に統一感のある価値観を植え付ける役割を担ってきた。
宗教内で統一した思想を持つよう信者に要求するのは当たり前である。
多くの日本人も輪廻転生という仏教の概念を教えられている。
我々も洗脳されている。

・他宗教に関連するイベント(クリスマスなど)への参加規制
少なくとも日本で最もメジャーな仏教※においては無い。
キリスト教、イスラム教については掌握していない。
※タイ、チベット等他国の仏教とは別と解釈していただきたい。

・情報統制(特定のメディアを閲覧してはいけないなど)
少なくとも日本で最もメジャーな仏教においては無い。
キリスト教、イスラム教は宗派によってはあると考えられる。

・各種規制による、信者の付き合いの悪さ イスラム教は食の制限があり、1日5回の祈りの時間を設ける必要がある。
キリスト教は宗派がありすぎて掌握しきれないが、規制があるものは案外多い。
日本で最もメジャーな仏教は基本的に規制はない。

・信者に献金を要求すること
敬虔な信者であれば、世界三大宗教の信者も献金している。
敬虔な信者とは少し異なるが、日本で最もメジャーな仏教においては檀家という概念がある。
※宗教施設と懇意にし、金銭的支援をするという部分においては 広義で宗教団体への献金と考えて差し支えないと私は認識している。

・二世問題
新興宗教では問題になるものの、世界三大宗教では全くといっていいほど問題にならない。
故に、世界三大宗教は強引な勧誘を必要としない。
そんなことをせずとも、信者の子は必ず信者になる。
その上、それが社会問題等と取り沙汰されることもない。

・法(信教の自由)による加護があるため、諸問題があっても存在を認めざるおえないこと 世界三大宗教に対して、このような軋轢を感じる人は果たしているのだろうか。
あまり聞いた事が無い。
故に、世界三大宗教は宗教として絶対強者であると私は思う。


衝動する、多様性賛美と宗教対立

信仰は、人の社会生活と密接に関わっている。
自分の信じている神様が「これを積極的にやりなさい」と言うものは善行になる。
自分の信じている親が「これを頑張ってお前は良い子だ」と言うものも善行になる。
自分の信じる友人が「こういう人間は良い人と思う」と言うものには善性を感じる。
人間は、自分が信じたいと思ったものを正しいと信じ、自分が正しくないと信じたいものを間違いと信じる。
故に、国の文化にまで食い込み人々の生活習慣に潜むことに成功した世界三大宗教は 新興宗教と異なり、人々に「私の生活を脅かす外敵」という認識を持たせにくい。
対する新興宗教は、人々が慣れ親しんだ世界三大宗教とは異なる信教のため侵略性を伴っており
その上世界三大宗教が既に根付いた人間社会では異物として敵視されやすい。
新興宗教が嫌われ、攻撃されている様は異教徒を排除するのと大差ない。
多様性が歓迎され、信教を異にする者同士が手を取り合うのは素晴らしいことと言いながら
それは世界三大宗教の信徒同士のみにしか適応されていない歪さに、私は辟易している。

自分たちと信仰を異にするならば排除するべき。
ならば、許される多様性と許されない多様性が存在することになる。
それは果たして「多様性」なのだろうか。

信教を異にする者同士がいがみ合ったことは歴史の随所に記されている。
人類は、今も同じところで足踏みしている。

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