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色々あっても諦めんなよって声がする

眩しい、と同時に、熱く蒸した空気と蝉の大合唱が全身を襲う。

視線の先、数人の乗車客の向こうに陽に焼ける駅のホーム。点字ブロックの濃い黄色い線、アスファルトの隙間から生える雑草の緑。扉が開閉した瞬間、そこに切り取られた夏を見る。
そうだ、今は、夏だ。
今年に入って職場への行き来に電車を利用するようになり、その窓や扉の向こうの景色から季節を知るようになった。
そして、今は夏。
こうやって知らない誰かが操縦する鉄の箱に身を任せ揺られる日々を過ごすようになって、いつの間にか季節はふたつほど通り過ぎたことに気づいた。

お久しぶりです。
今冬、新しく始めた仕事で生活が大きく変わり、文章を書くことからだいぶ離れていました。春が過ぎて暑さも本格的になってきたこの頃、本を読む余裕もようやくできてきたところです。

とはいえ、先日スマホのメモアプリを遡ったときに、仕事と生活の両立に慣れない私が苦し紛れに書き殴った文章を見つけました。
ちょっと心配になるけれど、こんな自分もいたことを忘れずにいたいからここに書き記しておきます。

下書きを残していたのが、以下の文。

◇ ◇ ◇

今朝、駅の階段を降りながら、思い出したことがある。
一昨日の、帰りの駅のホームでの出来事。

仕事終わりに乗車口の前まで歩いていたら、前方から急足のリュックを背負った男性とぶつかった。下を向いていて避けきれず、私は体勢を崩し黄色い点字ブロックを線路側に大きく踏み外した。
反射的に下半身が力む。見下ろした足先には錆びた線路。途端、背に冷たい汗が噴き出した。
顔をあげたら、私の待つ電車とは反対に停車しているそれに吸い込まれるようにして消えていく男性のリュックが見えた。
僅か数秒の出来事。

じん、と、ぶつかられた腕の痛みを脳が認識してやっと、体の奥から、ぼこりと沸騰する感覚があった。
それは一気に鼻腔まで到達し、目の奥まできた。

なんだよ。
なんだよ、謝れよ。

涙腺が強く刺激される。
ああ、もう。こんなことで泣きたくないのに。

落ち着け、落ち着け、と熱に震える体に言い聞かせるが、この日はどうも収まらなかった。見ず知らずの人間に向けたかった行き場のない刃は、対象がここになければ私はもう自分で受け止めるしかなかった。
だから最近、新しく始めた仕事での自分の不出来さを鮮明に呼び起こす。
いや、呼ばなくても勝手に浮かんでくるし、なんならさっきも下を向きながらその事ばかり反芻して歩いていた。

私が悪いんだ。
下を向いて歩いていた私が悪い。
仕事でミスをした私が悪い。
それなら、もう、仕方ないよね。

やりたいことと、やらなければいけないことが一緒とは限らない。
そんなことわかっているのに、今の私にはそれがなにより辛かった。
思い描いた理想と目の前の現実との差に戸惑いながら、最低限の生活を続けることに力を注ぐ。
食事。洗濯。掃除。しょくじ。せんたく。そうじ。
一人ではないことが救いだった。共に暮らすパートナーの力をこれまで以上に借りる。それにも申し訳ない気持ちがある。私の一存で前職を辞めて収入だって減ったのに、前より負担をかけてごめん。

ぎゅう、と目頭を抑える。だめだ、今じゃない。今じゃない。
そうやって滲んだ世界にはさっきの線路が残念そうにしていて、次の電車がくるアナウンスがもっと下がって待てを叫んでいる。

◇ ◇ ◇

メモアプリのこの文章を見た時に、さすがに自分を可哀想になった。(他人事のように言ってるけども)
でもこうして言葉にして懸命に昇華しようとしているうちは、まだ大丈夫だとも感じる。言える口があるうちは、書き殴る気力があるうちは、まだ大丈夫だと思っている。ストレスを吐き出したり、発散したりする方法は、赤の他人の手を借りてでも人は持っていた方がいい。

過去、こんな私だが、それでも「仕事を変えなければ良かった」なんて1ミリも思うことはなかった。
どんなに失敗して落ち込んでも、理不尽な出来事が重なっても、生活が追い込まれようとも、たった1冊の本が私の背中を支え続けた。

それは、著・山内マリコさんの『あたしたちよくやってる』。

前職、日々残業に追われて帰宅時間が夜中だった頃、当時の上司にその日の残業申請に行った時に「なんでこんな遅いの?効率悪いんじゃない?」と言われた。言葉は耳を素通りし理解に及ばず、すみません申請印だけここに、とだけ振り絞って言い、ため息と共に押印された。席に戻り、やがてその言葉が反芻されて悔しくて涙が出た。と思ったのに、頬は乾いたままだった。
その夜に24時間営業している本屋に立ち寄り、漫画の新刊を買おうとしたが手に取ったのは、この本だった。たぶん、タイトルに強く惹かれた。

こんな時、私はおめでたい人間だから、私に向かって言ってくれていると強く感動してしまう。
「あなたは」じゃなくて、「あたしたち」となってるのもいい。
あたしたち、よくやってる。
小さな文庫本の向こうに、同じ境遇の同じ想いのたくさんの同志たちの姿が見えた。
中を開くと、彼女たちも忙しく泣いたり葛藤したり、飄々と笑っていたりする。

「ねぇ、色々あっても我儘に自分らしく生きることを諦めんなよ」
そんな言葉をかけられたようなきになる。
やがて静かに、みぞおちあたりがふつふつしてくる。

この本を思い出す時、思い出さない時もある。
でも一度読んだ文章は私の中に宿り、大事な部分を励まし続けてくれる。

頑張ったな、私。
半年前の自分に言ってあげられるほどの今の私。
頑張ったな。よくやったよ。
あの時諦めないでいてくれてありがとうね。
そうも言ってあげたい。私へ。

今もパートナーに負担をかけているし収入も上がったわけではないし、好き勝手始めたことへの申し訳なさに苛まれたりするけれど、でも、後悔はしていない。
絶対に、後悔はしない。
この道に進んで良かった、と言う私になりたい。
いや、なるんだ。
私はこの選択を強く信じている。

“歌を歌いながらパンを得よ”

作中にもでてくる、フランスの哲学者アランの言葉。
日本ではまるで夢のような言葉。やりたいことをやってお金を稼ぐなんて、そうだとしても譲れない辛いことはでてくるだろうって誰かが言ってた。
でも、そんなの知らない。
確かに自分の不甲斐なさに落ち込むことはあっても、それがストレスでご飯食べられなくても、寝れなくても、私は大丈夫。ひっくるめて、良かったと言う。

そして未来の私がきっと言う。
あの時、頑張ってくれてありがとう。おかげで今の私は大丈夫だよって。

それを聞いて、私は笑う。
過ぎてしまえばどうってことないよ。これはこれで、楽しくもやってるよ。

でもまぁ、感謝してよね。
って。

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