神の寿命
なんて胡散臭いタイトル。
いまは堅苦しいことを書くような気分ではありませんが、ツイートを遡ったところ こちらのテーマが目に留まってしまったので、書き下します。
みなさん、神は存在すると思いますか?
ちょっと身構えてしまう質問ですね笑
理系学生らしく掘り下げてみましょう。質問を少し変えます。
みなさん、神の存在条件は何だと思いますか?
これは間違いなく『人の不安心』です。これに限ります。
人智を超えた状態に陥った際、頼れるのは神様のみですね。
死なんかよくわかりませんし、天国を祈ったりします。
今年の運勢なんて誰も知りませんから、お告げをおみくじ経由で伺います。
ひいては、昔は明日の天気すらも祈っていました。てるてる坊主とか。
不安な状態のままでいたい…なんて思う人はいるんですかね?
いるんでしょうけれども。そういった人における『神』は死んでいます。
さて、本題に入りましょう。
神は死にます。永遠のものではありません。寿命、あります。
とはいえ先の条件に関連しますが。
思うに、不安がなくなれば神様の存在意義がなくなります。
つまり、人の不安心こそが神の寿命です。
不安な気持ちがある限り信仰は続きます。
ところが、満足されれば信仰は薄れていきます。
創作物にもよくある話ですね。現代社会において廃れた神社の神様が信仰を取り戻すために~、みたいな。
科学技術が進歩するにつれて、人の心を占める神の割合は減っていっているのではないでしょうか?
死…はまだよくわかりませんね、依然 神頼りです。
運勢も…よくわかりませんね。
ただ天気は、神様よりはアメダス様ではありませんか。
前述の例えがよくなかったですね…。ちょびっと後悔。
気を取り直しましょう。
アタラクシア、というものがあります。
高校知識なので恐縮ですが、いうなれば心の平静状態のことです。
当時 授業を聞いていて、神がなんだとか板書された後にアタラクシアを解説され、「お!これは神が不要とかそういった話につながるのかな!」とワクワクしていたら全然そんなことなかった、なんてことがありました。
その後ニーチェの「神は死んだ」で、おおっと!と思いましたが、内情は違いましたね。
仏教もアタラクシアを目指すための宗教である一面があります。
捨、というらしいです。調べました。
信心深い仏教徒は仏、いわば神になろうと修行を重ねます。
今までは、
不安がなくなる=人が信仰するような神がいなくなる
といった論旨でしたが、仏教に基づいて視点を変えてみましょう。
不安がなくなる=神と同格となる(信仰対象がいなくなる)
といった視点。
たしかにアタラクシアは人における理想状態のひとつですし、不安のない人間なんて存在し難い…はずです。不安のない人……人智を超えた存在として扱われ、教祖に……。これがカリスマの正体…?
どうなんですかね、よくわからなくなってきました。
終わりになりますが。
ぼくは、自信満々な人よりは、苦手なことや不安がある人のほうが人間味があって好きです。前者を否定するわけではありませんが、自身と比べてしまって疲れてしまいそう…。
自信満々な人は、遠目からみて「すごいなー」「ああなりたいなー」くらいの気持ちで接していきたいです。このほどほどな距離感、さながら信仰ですね。
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