ささくれ


食器を洗っていたら、冷たい水が指に沁みた。寒く、肌が乾燥する時期には、特に覚えのある、この感覚───。作業を止めて、その部分を確認してみると、爪の生え際の皮が薄く、細くめくれている。めくれた部分は少し赤くなっているが、血が流れる様子は見られない。刺激を感じつつも、洗い物を続け、やがて終えた私は付いた水気を拭いて、改めて確認してみる。めくれた皮はまるで、小さな花びらのようで、その部分に触れてみると、刺激が走り、人間の痛覚はこうも細かい部分にまで生きているのかと少し驚かされる。

日常の作業をしていると、そのささくれた箇所がどこかに触れて、その度に刺激が生じる。私は、めくれた皮が鬱陶しくなったので、それを引っ張り、断ち切ろうとしたら、意外にもしっかりと皮として繋がっていたものを強く引っ張ることになり、覚悟していたよりも痛かった。そして、それによって、ささくれは更に大きくなってしまった。私はやはり、それをそのままにしておくのがもどかしく、また更に引っ張って、断ち切ることにした。すると、その部分から少し血が出てきてしまった。また、皮をちぎってしまったことから、内部が露になり、その部分はより刺激に弱くなってしまった。本来なら、鋏などで行えば良かったと思うが、ささくれは大したことがないという思いに私自身が引っ張られたのかも知れない。

ささくれの刺激は形容しがたい。最初は痛みと感じたが、徐々に慣れてくると、それは痛みなのかわからなくなる。手を動かすたびに、どこかに擦ることになるが、その刺激はどこか心地よく、愉しい。そう思えてくるのだ。自分が傷ついているという感覚もなく、自ら傷つけているという感覚もない。この感覚に適当な言葉が思い浮かばない。痛みや苦しみが快楽であるという嗜虐趣味や禁欲主義とも違う感じがする。

だが、その感覚は何だろうと考える間もなく、いつの間にか、ささくれた部分には新しい皮ができて、何事もなかったかのような状態に戻る。ふと、ささくれがあったことを思い出し、指に刺激がなくなっていることに気づく時がくるのだ。食器を洗う際も、衣服を着替える際も、刺激が走ることがなくなり、指先への意識は若干、和らいだように思える。

ささくれがなくなって、ささくれがあったときのことを思い返すと、普段の生活で、自分が指先にまで意識を向けることがほとんどないということに気づく。他に何を考えているのか考えてみても、特にはっきりとしたものはない。私は思いのほか、鈍感に生きているのだとわかる。

痛みとは、身体の不調を告げる信号であるらしい。痛みがあるからこそ、人は無理をしないようにし、その限度を知ることができるという。逆に痛みさえなければ、血が出ることも恐れないという。痛みさえなければ、人はどんなことも耐えられる。耐えてしまう。

ささくれの刺激とは、私の鈍感な生活の裏返しなのかも知れない。その形容しがたい感覚は私がいかに無意識のままに過ぎてしまっているかについて考えさせてくれる機会を与えてくれているのかも知れない。そして、その形容しがたさは新鮮な発見に接する私自身のそれまでを鏡のように映しているものなのだと思う。ささくれの度に自分の鈍感さを思い知らされる。この感覚は私にとって、尊い刺激なのだろう。けれども、そうであるからこそ、もう新しいささくれができないように指先に気をつけた生活を私は送るべきなのだと考えている。そう感じている。