細密画

私は視力が弱く、普段から近い距離の物しか見えないのですが、鮮明に見える視野が狭いと、それだけで自分の意識や思考そのものがぼやけてしまうように感じられるときがあります。眼鏡をかけようか悩むところですが、私は眼鏡を装着した状態で生活することが苦手で、眼鏡を所有してはいますが、ときどきしか使用しません。眼鏡がなくとも、日常生活の中で困るほどではなく、目に何かを入れることにも抵抗感があるので、今のところはこのままでよいと考えています。物が見えないことには問題がありますが、細部まで物を見ようとしても、この現実はあまりにも複雑で、そのことにこだわることは無意味ではないかとも思っています。

そのように視力の弱い私は細密画と分類される絵画が好きで、しばしば自室の中で、画集をじっと眺めながら長い時間を過ごします。重厚な画集を床に広げて、寝転がりながら、その内の一枚の絵の上であちこち視線を動かしています。細密画とは私にとっては一つの宇宙です。もちろん、あくまで宇宙といっても、それは多少視力が弱くとも、見ることに不自由しない平面上の世界であり、現実のそれほどには複雑ではなく、描かれている範囲も限られているに違いない、人間の手による創作物です。作品によって個性はあれど、目に映る物が全て同じ鮮明さを有した、絵として私の前に開かれている宇宙です。私はその宇宙を眺めながら、そこで繰り広げられているであろう一つの物語を夢想しては、また別の描写を発見し、新たな物語に入れ込んでいくようにして、細密画を楽しんでいます。絵を眺めている内に、鑑賞している自分自身もその作品世界の一部のように感じられて、そういったことに気づいたときに感動を覚えます。

しかし細密画とは不思議なもので、多くの場合、その作品の感想を述べるよう求められたとしても、それを明晰に、統一的にはっきりと述べることが少なくとも私にはできません。それ以前にまず、その絵を目の前にしても、何を見たらよいかすらわからず、ただただ混乱させられてしまうばかりなのです。一体、作者はどのような意図で、微細な描写の作品を創作しようと試みたのかが謎であり、考えても納得のいく答えを作品から見出すことが難しいです。作者は最初から完成形を鮮明に頭の中に思い浮かべていたのか、それとも描きながら、その都度考えて修正していったのか、とても気になります。あるいは漠然とした抽象的な夢から形作っていったのか、分割しながら構成していったのか、こういったことを考えるだけで時間がすぐに過ぎていきます。

細密画の魅力とは、それを観る人が各々自由に感じることが許されているところにあるのではないでしょうか。極端な話、作者ですら想像していない画を鑑賞者が見出すことができるのが細密画に接する醍醐味の一つだと私は思います。

細密画を鑑賞することは、この宇宙を見ることと似た感慨を与えてくれます。広い範囲を見ようとすれば、細かい部分が目につかず、細かい部分を見ようとすれば、それよりも広い範囲が目に入らず、どれだけ細かいものが見えたとしても、それが別の描写の一部であることに気づけないのです。確かに何かを見ていることを理解できたとしても、それが何なのかはいつまでもわからないまま、ただ時間だけが過ぎていきます。

細密画について考えると、私にとって、何かをわかった気になるということが最も退屈なものであると気づかされます。よくわかりもしない、これから理解できるわけでもない細密画を観続けて、時間が過ぎていくのが惜しいと思うこともなくはないのですが、私のように視力が弱くとも、この宇宙に驚く目を見開かせてくれた細密画はやはり素晴らしい表現なのだと、この文章を書きながら、その魅力を改めて再確認しました。