見出し画像

自己破壊

今とは全く異なる自己になってみたいという願望が私にはあります。聖なる存在に更生したいとか、今よりも高位の立場に就きたいとか以前に、ただ単に別の人になってみたいのです。道ですれ違う人、私と対話をしてくれる人、私のことを見知ってくれている人、私のことを全く知らない人───様々な人の身になってみたいです。

多くの人は善意に基づいてであれ、悪意に基づいてであれ、他人について思慮を以て行動していると私は思います。もし善意に基づいてであれば、他人が喜ばしいと思うことを自らが為そうとするでしょうし、悪意に基づいてであっても、他人が喜ばしく思わないだろうことを確信して、望ましくない方向に向かうように何かしらの行いをするだろうと思います。いずれにしても自己は相手の身に立っていると、自身を信じている状態にあると言えるのではないでしょうか。そういった意味では、人はどのような理由であったとしても、他人を自分のことのように理解することを望む性質を有しているのだと私は考えています。自分自身を省みたときには、たとえ意識を向けていなくとも、心の深奥では自分以外の誰かを求めているように感じます。

 
以前の自己から全く異なる自己に生まれ変わるということは可能なのでしょうか。自己破壊とは、それは自己自身によるものである以上、どれだけ自己を破壊したと思えても、実際にはそうではなく、細かな癖などを変えることは難しいのではないでしょうか。例えば、全く異なる視点で文章を綴りたいと思っても、自分の文体や叙述から逃れることは難しく、行間に潜む微妙な息遣いなどは簡単に変えられるものではないと思います。

自己自身で気づくしかない、自己刷新をし続けることでしか人は生きることができないという、この当然の現実は私にとっては人生で生き抜いていく上で困難なことの一つです。どれだけ人から教えられても、自分の知性で考え、理解することができなければならないというときがこの世の中にはあります。それができないと、自然と自分の周りから人が去っていくような状況も考えられます。人が離れていかなくても、全く救いようのない存在だと周りから見なされていることもあるかも知れません。そういった意味で、私は私であり、他の誰かになることは叶いません。

自己と他者の境界が厳粛に存在すると理解するならば、善意であれ悪意であれ割り切ったものとして私は考えることができます。誰かと真実に結びつくことなど信じられないならば、感情移入も理性的になります。理解できないことや共有できない物事があったとしても、諦めることができます。割り切れないものを割り切って考える必要が生きていればあるものですが、そのように考えるとき、私は人と人との関係というものが簡単には割り切れないものなのだと逆に認めることができるように感じます。割り切った感情を生きながらも、割り切れないものがあるということ、自分が割り切ろうとしていることは本来割り切れないものであるということ、その理解を大事にしたいです。簡単には割り切れないからこその悩みなのだと、その難しい思いの居場所をいつか見つけ出すことができたらと私は望んでいます。