初期衝動

自らに湧き起こる衝動を飼いならそうとして、抑えようとしても、その反発のために自分自身がとても摩耗していく感じを得ます。何か既成の型に当てはめようとしても、結局のところ、その衝動は都合の良い形に沿ってくれることがないために、自分自身の中で暴れ出す力を感じます。その力を落ち着かせるために束縛しようとしても、無意味なことのようにしか思われず、初期衝動と呼ぶべき、その情熱は常識も礼儀も知らない───ただ剥き出しの自己主張が光っているのみに感じられます。


私の内にこのような衝動が生まれたとき、そしてそれに気づいたとき、私は自分自身に驚き、困惑しました。その情熱には何の根拠もないことを私は理解していたからでした。しかし私には、どうやって生まれてきたのかわからないこの情熱をどのように扱えば良いのかも全く分からない───自分自身の中で生まれたものである以上、自分の外に捨てるわけにもいかず、しかし、かといって育て方も守り方もわからないでいるのです。私はこの衝動のために自分自身が重荷になるように感じます。どうして私は私の思ったように、その情熱のために動くことができないのだろうと、劣等感さえ抱いてしまいます。


ですが、次第に耐えきれずに疲れ、体調を崩しがちになった、あるとき、私の内からいつのまにかその衝動が弱まっていることに気づきました。徐々に私は冷静さを取り戻していき、自分自身に対して、一歩離れたところから考えるようになりました。そこにかつての情熱が猛威を振るう余地などはなく、私はいつのまにか暗い色や静かな音楽などを好むようになり、病的な情熱から離れた生活をしたいと切に願うようになりました。今度は逆に何かをやる気がほとんど起きることがなくなってしまい、私は自らが退屈でつまらない人間だと思うようになってしまいました。

私は自分の感情が謎に感じられて仕方がありません。結局のところ、根拠のない思いに振り回されて、何か大事なものを失っているような、自分のものにしきれない感じを得ます。


とはいえ、その衝動が全くなくなったわけではなく、相応しい時が来るように待っているような、そのような不穏を感じます。そして時が巡って、今度は更に大きい衝動が私を襲うようになりました。それは私にとって悪夢なのか、その反対なのか、自分自身でもわかりません。もしかしたら、それは私を破滅させるかも知れませんが、その逆の期待もなくはありません。何がこのようにさせるのか私にはわかりませんでした。その情熱は夢でしかないもの、しかしその夢が現実に私を苦しめるものになっていると気づいたとき、私は、形を取らないものが現実に影響を及ぼすことを知ったように思います。

何らかの熱い衝動に取りつかれることは、人の身も心も疲弊させるように感じます。その力が自分の容量を超えているために、それを長い時間保つことが難しいです。


しかし、いつから私はぬるい常識や形式的な礼儀に甘んじるようになったのだろう、と思わずにいられない───私が生まれた時からそうだったのだろうか───この衝動に私は食らいついていくべきなのだ───そのように自分自身を作り変えていくべきなのだ───私の衝動はそのように改めて私に迫ってきていて、今もそれが強まったり、弱まったりしています。年を重ねるにつれて、様々なことを学び、他人にも自分にも慎みある生活を送りたいと望むようになった私ですが、手に負いがたい衝動が自らの内に生きていることは否定できないでいます。たとえ、これから先の日々で、その衝動が満たされることがないとしても、私はそれと生きることを喜びであると感じられるように、悔いのない生活をできればしたいです。