殖産興業

 新しい本を読もうと探すと、世の中の危機について訴えている作品に出遭うことが増えました。それは世の中の危機が以前よりも増大しているせいなのか、あるいは私が無意識の内にそういった内容を求めていて、そのような本ばかりを追ってしまうためなのか、それらとは違う別の理由があるのか、私自身でもわかりませんが、ともかく最近はそのような書物を手に取ることが多くなり、そこで主張されている思想や時代の雰囲気などに感化されてしまっているように思うところがあります。

 世の中の危機と一口に言っても、それらを考える本の問題認識や主義主張は様々であり、具体的な事象は多様だと感じます。あるところで主張されている危機の解決法が別のところでは、さらに異なる危機を引き起こすとも言われていて、その収拾のつかない状況に、しばしば私は混乱させられてしまいます。そもそも物事の捉え方が人それぞれである以上、本の中で考えられている世界や危機の意味するところが異なっているのです。また考えてみれば、世の中の危機とは何も今の私の時代に限ることではなく、いつの時代にも、それこそ何十年、何百年と私が生まれるずっと前から山ほどあったはずです。しかし、それらの多くは今の時代にも受け継がれている危機意識として残っていないことの方が多いように思います。昔のそれが今となっては過ぎたこととされているように今の時代に出版されている書物がこれから先、どれだけ読み継がれていくのでしょう。そのように考えると、今のこの時代に問題とされている危機は別の時代にとってはそうではないため、その危機感は共有されないのではないでしょうか。共有されない理由が、属している世界が異なるからでないとしたら、現在訴えられている言論は私にはある種の楽観的な危機意識のように感じられなくもありません。

 とはいえ世の中が目まぐるしく移り変わったり、危機的な状況に陥ったりすると、適応能力のない人間にとっては正に一度きりの人生の運命を左右する一大事です。世の中の危機と本は訴えますが、実際の危機とはそのような本を読む人自身に迫っている問題のことであるはずですし、それはまた同時に危機に耐えきれない当事者としての人間の問題を私はその種の本から読み取ります。

 多様な危機にある世界においては世の中の危機について訴える本の作者の危機感も単なる個人的な危機でしかありません。人はそれぞれの危機を生きており、誰かの危機が別の誰かにとって同じとは限りません。世の中の常ではありますが、世間とは単なる個人的な危機の訴えを容認せず、あくまで自己解決が求められます。その危機に公共性があると認められる場合以外、危機に際して、人が協力して対処することはないでしょう。

 しかし公共の危機もあり、それに向き合うための働きもあります。例えば官と民の合同事業などがあります。公的な行政機関である官が営利目的の民間企業を支援し、その民間企業は政府の施策に協力します。共に産業を創出し、公共の世の中を活性化させるためです。行政機関による特定の営利企業への支援は決して恣意的で個人的なものではなく、企業の影響力を行政が把握することによって世の中全体の利益に適うように公正に還元されることになります。それはその企業で働く民間人やその家族のみならず、その企業の無数の消費者にも行き渡ることが目指されています。

 私が現在、充足している平和も、歴史を振り返れば、官民の合同事業によって成り立っていることが少なくありません。例えば一つの街の平和を守るということは民間の課題であり、政治のそれでもあろうかと思います。そのように認識すると、私はある疎外感を抱かざるを得ません。そういった社会の中で、世の中の危機について訴える本を読みながら、私は一体何をしているのだろうと思わずにはいられなくなるのです。身近な雑踏の人々も官民合同の殖産興業の中にあり、また私もその内の一人であるはずなのに自分だけが別の世界にいるように感じられる───自らが官民の施策と共にある時は雑踏や街並などの周囲の景色とも一体化しているような安心感がありますが、逆に自分がそれについていけず適応できない時には何とも言えない寂しさがあります。そして、それは悔しくもあります。自分にはそこに書かれている問題に向き合うだけの力がそもそもなく、焦燥感や抑圧ばかりがのしかかるからです。現在も世の中の危機を乗り越えようと、人々が協力しながら変革しようとしています。社会が崩壊しないための努力が続けられています。しかし、その中で誰かが取り残されるならば、世の中を一緒に変えたとしても、変わらない自己が雑踏の中に取り残されるだけなのだと思います。そして、それは決して世の中一般の危機などではなく、他でもない個人の危機に違いないのです。世の中の危機に接して、私の危機とは私だけのものなのだと考えるに至りました。その危機意識とは自らにとって負荷に違いないですが、かけがえのないものを大事にする矜持でもあると思います。そのような個人としての公共性を深めていきたいと、今この文章を記しながら、私は思いを強めています。