同語反復

    いつか自己紹介の場面で、座右の銘は何かと問われたことがあります。当時、私は答えに窮してしまったのですが、後から再び考えてみても、それらしい言葉を見出すことは叶わず、これが座右の銘だと言えるだけの言葉が私にはないのだと気づいた覚えがあります。現在に至っても、そのことに変わりはなく、これまで大事に思っていた言葉がないわけではないのですが、改めて今、その言葉の意味や意義について考えさせられています。

    どのような場面に際しても、自分自身を導いてくれる言葉を有していることは素晴らしいと私は思います。自己が喜怒哀楽、その他どのような感情にあったとしても、そのような感情を催す、どのような環境にあったとしても、それは自分の芯を持っているということであり、揺らぐことのない確信のために、その人が私には力強く感じられます。言葉と真摯に向き合おうとする限り、人はその言葉を裏切ることはできず、また悪意を以て歪曲しようとしたり、どこか狭い殻に閉じこもるための自己弁護にもしたりはできないはずです。同じ言葉を繰り返す度に段々と言葉の意味は深められていき、それは立体的な広がりを大きくしていくでしょう。そうして、その人自身が成長するための支えとなり、まさに生きる指針である座右の銘となるのだと思います。

    しかし私はこれまで生きてきて、いまだにそのような言葉を見出すことができないでいます。何か大事にしたい言葉を胸に抱いたとしても、その言葉がどのような環境においても力強く私を導いてくれたかというと、決してそうではありませんでした。どのような環境にあったとしても、繰り返されるべき言葉を繰り返し、さらにまた環境を変えて、繰り返しても、その言葉が意義深くあると思えた経験がありませんでした。

    私は、言葉とは言葉そのものではなく、言葉を取り巻く環境にこそ意味が求められるのではないかと考えています。例えば「人事を尽くして、天命を待つ」という言葉があります。これは、人間ができる全てのことをして、あとのことは天に任せるという意味であり、これ自体は人間の分とそれを超えた領域に対する自然な思考のように感じられますが、しかし、この言葉をそのまま受け取って、自己の環境に照応させた際に、ある疑問が浮かびます。疑問とは、この「人事」や「天命」とは実際の現実において、どのような存在を具体的に指しているのだろうということです。

 私の生活の細々とした行いは誰か他の存在に任せるようなことではありません。起床して、食事を用意して片付け、掃除をして、その他諸々のことは私自身がやるべきことです。これらは私にとって人事と理解されている行いです。しかし環境を変えて、これらを他の人に当てはめようとすると、私にとっての人事とは誰にでも適用できるものではないことが分かります。目覚めても自分で起き上がることができない人がいます。そして自らの力で起き上がることのできない人は多くの場合、自分自身で食事を用意することなどできないと察することができます。さらに、そういった人はその他にも私が人事と考えていることを少なからずできないのではないかと思うのです。また、私にとって人事を尽しても及ばないことは何かと考えてみると、考えられないほど多くの事柄が思い浮かぶと同時に、人事を尽くした上で天命を待つという言葉の実存に則るにおいて、あらゆることが人事のようにも考えられなくもありません。

 何が人事であり、天命であるのか、それがその人の立場や環境によって変わるのなら、この言葉に何の意味があるのでしょうか。現在は健康でいられている私もいつかは大病を患い、それまで人事と理解し、行えてきた事柄もできなくなるときがくるかも知れません。そうなれば、その言葉は自己を導くようなものではなく、その逆でしかないと思います。そのときには私はもはや人ではないということでしょうか。人間の生活とは何なのかがわからなくなります。突き詰めて考えれば、人間の求めや理想が天にまで及ぶことがあり、天命すらも人事になり得ることがわかります。

 同じ言葉を繰り返していけば、環境によって、それは励みになることもあれば、別の人にとっては抑圧になることもあると考えられます。ある人にとっては座右の銘だとしても、別の人にとっては全く意に介さない言葉であるかも知れません。

 もしも、またいつか座右の銘は何かと問われたときに私はどのような言葉を発すればよいかがわかりません。何故そのような言葉がないのか、その訳を問われても、私は流暢に語ることができないでしょう。反復すべき言葉を考えれば考えるほど、それを見出すことができない自己を発見するのみです。言葉には自由もあれば、抑圧もある───。言葉に励まされたり、傷ついたり、そのときに私は言葉に悩んでいるのか、それとも環境に悩んでいるのかがわかりません。私のこの言葉も自らの環境から発せられているものでしかない以上、自分の内にある言葉をもう一度考え直したいと考えています。言葉が失われる経験とは、自分が思ったり、発したりする言葉の重みを捉え直し、言葉を大事に意識する契機なのだと思います。