余命

ときどき私はあとどれだけの時間を生きることができるのだろうと不安な気持ちになることがあります。聞くところによると、健康な人間は百年とそれ以上ものあいだ生きることができるといいます。対して動物の場合、犬や猫などは十数年、兎は五~十年、ハムスターならば二~三年ほどらしいです。人間よりも長く生きられる動物もいるらしいですが、人間に身近な動物は大体この程度のようです。比較すると、とても短いように思えますが、生物の一生というものは実感としては測れないような不思議な思いを私は抱きます。

一応、私は人間ですが、正直な気持ちを述べると、自分が百年と生きることを全く想像できません。なんとなく思い浮かぶとしても、それは他人の姿でしかなく、自分のこととして考えることができません。単なる時間として思いを馳せると、様々な面での己の可能性のなさから、あとこれから何十年と生きることには抵抗感すら覚えてしまうほどです。動物のように、例えば猫のように生きられたら、どうだろうと別の種族を羨ましく思うこともなくはありません。

しかし、こういった感覚は贅沢なものかも知れないと思ってもいます。何らかの病に冒されてしまえば、当然、その人は健康な人間よりも短い時間しか生きられないのであり、こういった考えを持つことすら許されないほどに短い場合もあると考えられ、そうなれば、もっと長く生きられたらと私は望むに違いないからです。

人生というものはとても不思議なものだと私は思います。その人には想像の及ばないような長い可能性がありながら、ほんの数年、十数年生きただけで、それから先の生涯への達観した視点を身につけ、できる限り早いうちに、精神的に成熟することが求められているようであり、長く生きられるかわからないのに、長く生きられるものと信じて、計画的な生活をしなければなりません。それでも、そういった人も遅かれ早かれ人生の幕を閉じてしまう───成し遂げたいことを十全と成し遂げられずにこの世を去らなければなりません。

しかしながら、長く生きられることが幸福であるとするならば、早世してしまうことは悲しいことですが、人生に充実を求めるならば、それは必ずしも悲しいことばかりではないように私からは思えます。仮に、長く生きたいと願いながらも早世してしまうならば、その人はむしろそれだけ人生の不条理も喜怒哀楽も多くなめたように私には感じられます。

私はつい自分も他の人と同じようにいつか寿命が尽きるのだということを忘れる───目の前の物事に一喜一憂したり、言葉ではこのように書いていても、本意ではないことに感情の矛先を向けてしまう───自分の終わりが見えていたなら、この目の前の景色も、どのようなものに見えるのだろうかと考えてみる───あるいは、いつ終わりが来るかわからないということを突き詰めていったとき、最後まで生きているものは何なのかが私は知りたい───そして逆に私はどうして、そのように思わないでいられるのだろうと考えてみる───どうして、このように安逸に耽りながら文章を書けているのかについて私は自分の文章の中で考えてみたいと思った───自分が余命宣告を受けたとき、私にはきっとこのようには書けていないだろうと思う───本当に苦しいときにはここまで文章を綴ることすら難しいものだと想像します。

自分がいつどうなるかわからない───どうなっても仕方ないとわかってはいる───けれども、どうなってもよいとは思えない───。

終わりに向かって生きるということを私はどうしても認められません。生きている間に、この世を去ることを見据えて、所有物を整理したり、墓を建てたりする人がいます。そういった人を知ると、自分がいかにこの世に執着しているかを思い知らされるような感じがします。無意識のうちにそうであることを気づかされます。どれだけ思い出深い大事な物であったとしても、この世を去ってしまえば、他人にとっては意味のないものでしかありません。生きていれば、自然と大事なものが増えていきますが、ものを大事にすることは必ずしも素晴らしいことではなく、後ろ向きに生きることも悪いことではないと教えてくれているように考えさせられます。前向きに、人生に希望を持つことばかりが素晴らしいのではなく、失われたり、忘れられたりしていくことが自然なのであって、何かを大事にしたいと願う心は、別の視点からは、この自然の摂理に反抗的だと映らなくもないと思わせてくれます。

もう自らに残されている時間はないと思いつつ、先のことを心配しながら私は生きています。失われたり、忘れたりしたものをふと回想しては嘆き、過去に囚われもし、それでも大事にしなければならないものが増え、未来に対して無責任な情熱や希望もまた生まれていきます。しかし、これから私がどうなっていくかは、結局のところはわかりません。それでも、矛盾し、破綻に満ちた思いを抱えながら生きていくことが人生なのだろうと考えると、いま私は生きている実感を少し取り戻すような感じを得ます。